第5話 雲を操っているのか?

 やたらうるさい風切音に晴人は目を覚ました。開いた視界に最初に飛び込んできたのは、保健室の白い天上ではなく綿菓子のような白い雲だった。

「気がついた?」

 握られた手の感覚は地上と同じだった。晴人の手を引く恰好で、夏芽は空へ上昇を続けていた。 

「……夢じゃないんだな」

「うん、これは現実。今、私たちは身体をベッドに残して空を飛んでる」

 高層ビル群が眼下でみるみる小さくなっていく。どれほどの速度で飛んでいるのか見当もつかない。晴人は自分の身体が自分の持ち物じゃない感覚を味わった。

 ふと疑問が湧いた。「どうして寒くないんだ? 空って地上と比べてかなり寒いんだろ?」

「私たちが外気みたいなものだから、外気に左右されることはないの」

「なるほど」

 わからない。

 下層雲が漂う高度になって、夏芽は上昇を止めた。もう自分の身体が置いてある学校がどこにあるのかわからない。

「もう離しても大丈夫だから」

 知らずに相当力んでいたようで、握った手を持ち上げ、夏芽が少し顔を歪めた。

「話した途端に落下するってことはないよな……?」

 晴人の不安そうな顔を見て夏芽が苦笑する。「昨日の夜はひとりで飛んでいたでしょ?」

「あれは夢だと思っていたから」

「大丈夫、変に意識した方が上手くいかないよ」

 同い年に自転車の乗り方を指導されているよう気恥ずかしさを感じ、晴人はようやく握りしめていた彼女の手を離した。

「おっ、うわっ」

 身体が浮かぶ妙な感覚。重心をどこに預けたらよいのかわからずぐらついてしまう。

「大切なのはイメージ」

そうアドバイスして夏芽はくるりと宙を一回転した。

 晴人が感嘆の声をあげると、

「いちいち感心してなくていいから。すぐに晴人もできるようになる」

 晴人がぐらつくことなく一か所に留まれるようになったのは、夏芽の言ったとおりそれからすぐのことだった。待ちかねたように夏芽は居住まいを正して晴人に向き合った。

「そろそろ納得してくれた? 晴人は寝ていたわけじゃない、ずっと起きていたの」

晴人が小さく頷くのを確認してから夏芽は続けた。「晴人には、やってもらうことがある」

「やってもらうこと?」

「晴人が自在に空を駆け回れるようになったのには理由がある」

 冗談ではなく私は大真面目だから。と夏芽は前置きした。「笑ってほしくないけど、きっと笑うと思う。だけどしょうがない、私もからかわれていると思ったから」

 夏芽が何重にも予防線を張るのが晴人には少しばかり不満だった。

「こんな状況に置かれているんだ。ちょっとやそっとじゃ笑わない」

「……わかった」

 夏芽の髪をなびかせていた秋風が見計らったかのように凪いだ。

「晴人にしてもらわないといけないことは、季節の管理。担当は春」

 季節の管理。人ひとりがどうこうできる規模ではない。晴人が反応できないのをあらかじめ想定していたらしく、夏芽は構わず畳みかける。

「晴人には春の欠片が宿ったの。そうなった者は四季者になるのが務め。ちなみに私には夏の欠片が宿っていて担当は夏。新任の四季者の指導役は次節の四季者が務めるの、つまり私が晴人の指導役」

「…………」

「……やっぱり笑った」

 その指摘に晴人は自分の口元がいつの間にか緩んでいたことに気がついた。「無理ないよ」わかっていたからと言いながらも、夏芽の表情はどこか寂しげだった。

「いや、馬鹿らしくて笑ったんじゃなくて、ちょっと話の規模がデカすぎて頭が付いて行けなかった。ほらっ、日野さんもない? 授業で理解不能になったらもう笑うしかないってとき。あの感覚に近い」

 季節の管理という壮大な話を学校の授業で例えるのは無理があったが、焦った晴人にはこれが精一杯だった。

「それならわかるかも。地上に戻って目が覚めたとき、黒板に書かれている内容が科目すら違うともう勝手に笑い声が漏れちゃうよね」

「うん?」

 同意を求められたが、晴人もそこまでやらかした経験はない。さすが眠り姫というべきか。

「それで、私の言ったことを信じてくれた?」

 フォローしたものの、簡単には頷けなかった。

「季節を、気候を操れって意味だろ? そんなこと、人間にできるものなのか?」

「疑問ごもっとも。たしかに人間じゃ無理。少なくとも今の技術力じゃね。だけど私たちには季節の欠片が宿ってる。ここにいる私たちは人間の私たちじゃないの。私たちは季節の一部、つまり欠片」

 夏芽はいつの間にか手に持った光沢のある木の枝を頭上に掲げた。

「季節の欠片となった今の私たちは、天気を操れる」

 歌うように言うと、夏芽はオーケストラの指揮者よろしく、枝を持つ腕を大きく振り広げた。

 雲が波打った。晴人たちの足下に広がっていた薄雲が夏芽を起点に前後左右、みるみるうちに押し流されて遠ざかっていく。夏芽が操っているとしか思えない変則的な雲の動きに目が奪われる。

「すごい」

 半開きになった晴人の口から声が漏れた。  

「この程度なら自分の季節じゃなくても造作もなく操れる。……本当はここまで露骨に動かしたら駄目なんだけど、今日は特別ということで」

 きっと辰巳さんもきっと許してくれるはず。自分に言い聞せるように夏芽は呟いた。

 雲に遮られて見えなかった眼下の東京の街並みがはっきりと目に映る。地上からは今の動きはどのように映ったのだろう。

「これで信じてもらえたかな?」

 夏芽は雲を操った枝を伺うようにして晴人に向ける。

「俺の常識は否定したがっているけど、日野さんが雲を操った事実だけは……うん」

 夏芽は今以上のことをするのだと説明している。しかし晴人には自分が雲を自在に動かしている自分の姿をどうしても描くことができなかった。

「疑問と不安が尽きないような顔をしているけど、いきなり全部を理解しろって方が無理な話だから今はそれで充分。春までの時間はあまり残されていないけど、きっと間に合う。私が間に合わせる」

「えっと……、これから俺は日野さんの下で特訓を受けるってことでいいのかな?」

「間違ってない、けど、一つ注文を付けさせて」

「注文?」

「私のことは名字じゃなくて名前で呼んで」

 全く大胆な発言が多い子だ。

「日野さん、じゃ駄目ってこと?」

「数少ない仲間だし、名字で呼び合うのは距離間が出て好ましくないと思う」

「そっちがそれでいいのなら……」

 知り合って一日も経っていない異性を名前で呼ぶのは異例だ、少なくとも中学以降の晴人の記憶にはない。

「夏芽……さん?」

 ましてや呼び捨てなど。

「同じ学年なのに?」

 彼女の視線に耐えきれず、晴人は目を逸らし、

「……これからよろしく、夏芽」

 ぶっきらぼうに名前を呼んだ。



 夏芽曰く目的達成ということで、晴人たちは地上で眠る自身の身体に戻ることになった。

「戻るってどうすれば?」

 不意に意識が途絶え、気づけば身体に戻っている記憶しかない晴人には戻る方法など知る由もない。

「『戻りたい』と念じるだけ」

「じゃあ昨夜の俺は戻りたいと願ったわけか」

「いいえ、あの時は単純にタイムリミット。晴人の精神力が切れたの。ほら見て、晴人の身体、空に来たばかりのときより少し薄くなっているでしょ? それが透明になったら時間切れ」

「だからあのとき夏芽は時間がないってわかったのか」

「ぎりぎりだったけど、あの晩に晴人と会えて良かった」

そう言って夏芽は再び晴人の手を握った。「最初はこうした方が確実だから」

 夏芽は自分のためにしてくれている。他意はない。晴人は心の中で繰り返し唱えた。

「念じて。『戻りたい』って」

 度重なる夏芽の悪意のない攻撃に、別の意味でも保健室のベッドを想像した瞬間、晴人の視界は暗転した。

 目を覚ますと白い天井が空を遮っていた。

 視界の端で上履きを履き直している夏芽が映る。晴人が先に空から戻ったはずだが、身体に戻る時間も経験の差で早い遅いがあるのだろうか。

「起きた?」

 衣擦れの音で気づいたのか、顔をこちらに向けないまま夏芽が言った。

「気分はどう?」

「こうしてベッドの上で目覚めると、やっぱり夢だったんじゃないかって思えてくる」

「何度か繰り返しているうちに慣れるから気にしないで」

 ようやく夏芽は振り返った。前髪が少し乱れていた。

「そうだっ、授業」

 はっとして掛け時計に目をやると、短針は十を回っていた。このままでは一限目だけでなく、二限目もまるまる欠席になりそうだ。

「今更教室に戻ってもあんまり意味はないよ」

 淡々と言う夏芽に、彼女がすでに慣れきってしまった様子が伺える。

「出席できないことも結構あるのか?」

「眠り姫と陰口を叩かれる程度には」

 眠っているわけではない、しかし真実を口にしたところで誰も信じてくれる者はいない。むしろ痛い奴とレッテルを張られるだけだ。理解のある教師はいないだろうし、味方に付く生徒もいない。夏芽はずっと独りだったのだ。

「それじゃあ……授業終わるまでどうしようか?」

 これからは独りじゃない。同僚となった自分がとことん付き合おうと晴人は決めた。

「眠って。時間になったら起こしてあげる。自覚症状はないかもしれないけど、自分で思っている以上に空で消耗しているはずだから」

 言われて初めて晴人は身体のだるさを自覚した。プールからあがったばかりの疲労感に似ている気がする。

「空を飛ぶって想像と違って疲れるでしょ」

 夏芽の言葉は最後まで聞こえなかった。うつ伏せになった晴人は、今度は空ではなく、眠りの世界へ潜っていった。

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