第4話 私と寝て!?

 私は全てを知っている。少女の瞳がそう告げていた。

 腹の底から疑問が雪崩のごとく一挙に押し寄せてきたが、周囲からの注目の的になっていることを思い出して晴人は喉元で慌ててせき止めた。教室には生徒のほとんどが揃っており、遠巻きに晴人たちの動向を伺っている。予鈴が鳴るまであと数分、どうやって場を納めようかと思案していると、姫や天女のイメージとはほど遠い舌打ちが聞こえギョッとした。

「いつもはもっと早く登校しているはずじゃない?」

 じろっと見上げられ、

「今日は寝坊して……」

 晴人は戸惑いつつも正直に答えた。

 すると、「無理もないか」と妙に納得した返事が返ってきた。昨日の疲れを考慮すれば、寝坊は十分あり得る話だ。考えが及ばなかった自分が悪い、との分析付きで。

「場所を変えましょう」

 訊きたいことだらけの晴人にとって彼女の提案は歓迎だったが、今からとなると話は別だ。

「ホームルームまですぐだけど?」

「昨日見た夢のこと、聞きたくない?」

 殺し文句だった。晴人は机に鞄だけ残し、「どこで話す?」と眠り姫の手を掴み、勢いよく教室を出た。背中で呼び止める声が聞こえたが構っていられない。どうせ授業にはもう集中できない。

 眠り姫が提供した場所は、やはりと言うべきか保健室だった。

「この時間は誰もいないから」

 そう言って彼女はしわのない白いシーツが張られたベッドに腰掛け、晴人にはもう一つのベッドに腰掛けるよう促した。

「えっと……眠り姫、さん?」

 晴人にそう呼ばれ、当人は吹き出した。

「そう呼ばれているのは知っているけど、面と向かって言われたのは初めて」

「しかたないだろ、君の名前を知らないんだから」

 言い訳しながら晴人は顔が赤くなるのを感じた。

「そうね、まずは自己紹介から。私は日野夏芽、隣のC組、本人未承認だけど、眠り姫とも呼ばれています」

 最後の部分は明らかに晴人をからかっており、晴人は「空野晴人」とぶっきらぼうに自分の名前だけを述べた。

「知ってる。――色々ね」

 艶やかな瞳に見透かされているようで、晴人は態度には出さなかったが内心動揺した。

「俺は君のこと――日野さんのことを全然知らないけど」

「残念」と、少しも残念がっていない態度で、「これから同僚として嫌ってほど知ってもらうから。ただし、先輩は私だから覚えておいて」

 意味の通じない言葉が返ってきた。同僚、先輩ってなんだ? 同僚という言葉は部活には似つかわしくない。アルバイトか何かを指しているのだろうか。

「実は眠り姫って呼ばれるのはイヤなの。――眠ってなんていないのに」

 晴人には何ら関連性を感じない、脈絡のない言葉が続く。

「ちょっと待ってくれ。話に追いつけない」

「大丈夫、昔の私もそうだったし、たとえゆっくり説明されても理解できっこないから」

 懇願空しく夏芽は止まらない。

「晴人も自覚しているはず。眠ってばかりいるはずなのに眠いでしょう?」

 呼び捨てと同時に晴人が目下最も気になる部分に触れた。自覚は大有りだ。現に今日の寝坊も抗えない眠気が原因だ。

「それは晴人が起きていたから。あれは夢じゃなくて、現実。信じられないだろうけど、晴人はあの夜、上空五千メートルを飛んでいたの」

「…………はぁ?」

 期待感が崩れる音が聞こえたようだった。

「今度こそちょっと待ってくれ。それじゃあ日野さんと俺は、昨日の夜、ベッドから空に飛び立っていたと言いたいのか? 夢遊病なら空を飛べるとでも?」

「少し言葉が足りなかった。違うの、晴人の身体はベッドの上で寝ていたの。飛んでいたのは晴人の意識」

「……幽体離脱のような?」

「うん、近いかも。正確に言えば、霊体じゃなくて、晴人は季節の欠片になっていたの。晴人の場合、春の欠片ね」

 夏芽のことを想像力が豊か過ぎる痛々しい子だと一笑に付して突き放すことは簡単だ。しかし、晴人は空で夏芽に出会ってしまった。戯言だと否定することを晴人の身体が否定する。

「……笑わないんだ」

 晴人の様子をじっと伺っていた夏芽が意外そうに言った。

「春の欠片とかは意味不明だけど、雲の上で日野さんと出会ったことはまだ鮮明に覚えているから」

 晴人の言葉に夏芽は口元を緩めた。

「悔しいな」

 唐突な宣言に晴人は頭上に「?」が浮かぶ。

「私はこの話を初めて聞かされたとき、絶対に嘘だと決めつけていたのにな」

「俺の場合は日野さんがあまりにも印象的だったから信じられたのかもしれない」

 気づけばフォローの言葉が口をついていた。そして同時に失敗したことにも気がついた。

「印象的?」

 ほら見たことか。晴人は内心毒づいた。そう返されるのはわかりきっていたはずなのに。「月に照らされた君の姿はまるで天女だった」とは恥ずかしくて口が裂けても言えるものじゃない。

「ほらっ、日野さんと俺、あそこで話しただろ? 夢の中の会話をはっきり覚えているなんて稀だったから」

 慌てて絞り出した理由はそれなりの出来映えで、夏芽は特に疑問を持たず「そっか」とすんなり受け入れてくれた。

「それじゃあ晴人は昨夜のことを夢じゃないと納得してくれたってことでいい?」

「百パーセント納得したとは言い難いけど……まぁ」

「よかった。最初の関門はクリアだ」

 最初の、が引っかかった。その言い方では第二、第三の関門が待ち受けているようじゃないか。

「次にしてもらいたいことがあるんだけど、いいかな?」

 さっそく来た。不意打ちの上目遣い付きで。晴人の胸がこれまでと違う方向に跳ねる。

「次、っていうと?」

「夢じゃないと意識した状態でもう一度空まで来てほしいの。口だけじゃいくら説明しても実感が湧かないでしょ?」

「ごもっとも。でもどうやって? 意識してできるの?」

「私が誘導するから大丈夫」

「だからどうやって?」

 日野さんも眠るんだろう? 晴人がそう疑問を口にする前に、夏芽は言った。

「私と寝て」

「……!?」

 無表情からの大胆すぎる発言に、先ほどの胸の高鳴りがお遊びだったかのように晴人の全身が強張った。一限目が始まったばかりだというのに、この娘は朝っぱらから保健室で何をしでかそうとしているのか。

「ほら、ベッドに横になって」

 のどがカラカラに渇く。口がうまく回ってくれない。それなのに夏芽の言いつけだけには都合よく反応して晴人はふらふらとベッドに身体を預けた。天井の白さは晴人の頭の中そのものだ。

「もう少し横に詰めてくれる?」

 晴人はいっそう身体を堅くしてもぞもぞと身体ベッドの横半分にずらす。視線は依然として天井に釘づけだ。

 ポスッとベッドがひと一人分さらに沈んだ。柔らかい振動、日だまりの香りが晴人の鼻孔をくすぐる。

 恐る恐る視線を横に移した晴人の眼に飛び込んできたのは、息が掛かりそうな距離でこちらを見つめる夏芽の大きな瞳だった。

「~~っ!」

 眠るどころの話ではない。晴人の頭は緊張のピーク、狂乱の一歩手前だ。

「手、出して」

 耳をくすぐる声に言われるがまま、晴人は汗でぐっしょりの手を制服でごしごしと拭い、おずおずと夏芽の方に差し出した。

「これで準備万端」

 ぎゅっと手を握り満足そうに夏芽は言った。「さ、眠って」

 当然できるだろうという夏芽の注文に、晴人の頭は混乱しつつも、この子は阿呆なのかと首を捻った。無茶な注文となぜわからないのだろう。

「いや、無理だろ」

 天井に視線を戻して晴人は答えた。

「なぜ? 寝不足のはずでしょ?」

 どうやら本当に自覚がないらしい。途端に晴人は自分が恥ずかしくなってきた。妄想逞しいのは他でもない自分だった。

「寝不足、確かにそうだ。けどな、隣に女の子がいる状態であっさり眠れるほど俺は淡泊じゃない。ましてや日野さんは綺麗だ。眠気は消し飛んでいるし、今は自制するので精一杯だ」

 握られた手に、きゅっと力が加わった。汗ばんでいるのは晴人の手なのか、それとも。

「晴人だけじゃない」

 そんな反論が聞こえたと思ったが、首筋にチクリとした痛みを感じた途端、晴人の意識は急速に遠のいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る