第3話 月光を浴びた天女?

 街灯が照らす帰り道、奈緒の説明によると、秀樹たちが様子を見に来るまで、眠り姫なる人物は枕元でじっと晴人の寝顔を覗き込んでいたそうだ。

「さすがに恥ずかしかったのかな、あたしたちに気づいた途端、逃げるように保健室から出て行っちゃった」

「邪魔しちまったな」

 奈緒の言葉に追随して秀樹が軽口を叩く。

 夕日が差し込む保健室という特殊なシチュエーションが手伝い、奈緒の脳内では晴人と眠り姫なる人物、ふたりの恋物語が始まっているらしい。奈緒のあまりに先走った想像力には呆れながらも感心もする。秀樹はただ面白そうだから付き合っているだけなのだろう。フォローしないことには変わりはないが、晴人に向ける視線には時たま気の毒そうな色も混じっていた。

「何度も言うが、俺はその子を知らないぞ」

 ふたりにとってもはやそんなことは些末なことで、晴人に訪れたらしい春に「いーなー」を連呼するだけだった。

晴人は大きくため息をついた。ふたりがどう思おうと、自分が受けた印象は恋愛というより背筋が冷たくなるホラーのそれだ。ろくに話したこともない、面識のない女子が自分の寝顔をじっと観察していた? 美男子ならともかく、面構えにそこまでの自信はない。じゃあどんな理由で? 傍目には雰囲気あるシーンに見えたのかもしれないが、出演者としては堪らない。カーテンでベッドを囲っていなかったことに今更ながら後悔した。


 一面に敷き詰められた雲の絨毯は、満月の光に照らされて地上とは違う幻想的な世界を創り上げていた。晴人は周囲を見渡す。雲の絨毯の上には自分ひとりで、昼間見た女性は今夜の夢には登場してくれないらしい。

 夢から目覚める方法を自分は知らない。目覚めるまではこの雲海を適当に彷徨ってみようと晴人は決めた。雲の上を自由に飛び回る。まさに夢と言える状況に胸が高鳴ったのも束の間、夜が支配する静寂が晴人の寂寥感を次第に大きくさせていく。

「誰かいない?」

 ぽつりと呟いてみる。見渡す限り雲が続くだけの世界はひどく寂しい。

「あーーーーっ!」

 行く当てのない叫び声は吸収されることもなく散り散りに飛んでいく。

「……無駄か」

 晴人はゆっくりと目を瞑った。次に目を開けばきっとベッドの上だ。そう思った矢先のことだった――。

「いいえ、無駄じゃなかった」

不意にかけられた声は、頭の上から降ってきた。「やっと見つけた」

 昼間とは違う声、晴人は目を見開いて月と星が輝く夜空を仰ぎ見た。そして――月光を浴びた天女を見つけた。

「君は……?」

 月明かりの眩しさに手をかざしながら晴人が訊くと、

「もう時間がない」

 残念そうな声が降ってきた。

「時間? 時間ってどういう――」

 疑問が口から出終わるのを待たずして、晴人の意識はぷつりと途切れた。


 翌朝、眠い目を擦りながら晴人が登校すると、自分の教室でざわめきが起きていた。

 何事かと首を傾げながら教室に入ると、クラスメイトたちが一斉に晴人へ奇異の目を向けてきた。経験のない状況に思わずたじろぐ。晴人が立ち尽くしていると、机の合間を縫って秀樹がいち早く駆け寄ってきてくれた。助かった。

「なんだこの雰囲気、何事だよ?」

「何寝ぼけたこと言ってんだ。お前は当事者で、訊くのは俺たちの方だぞ」

「は?」

 注目される覚えはない。自分が最近やらかしたことを挙げるとすれば居眠りくらいだ。

「やっぱり知り合いじゃねーか」

 晴人が答えを見いだせないでいると、秀樹がにやにやしながら後方にある晴人の机を指し示した。

 晴人の机はいつもと変わらぬ窓際に位置していた。別に椅子がなくなっているとか、花瓶が置かれているといったこともない。そう、モノに異常はない。異常なのは、主人たる晴人以外がその場所を独占していることにあった。

「……どちらさま?」 

 晴人の口から声が漏れた。

 女子生徒が晴人の机に突っ伏していた。長い黒髪が机全体に血管のように拡がり、毛先は机から流れ落ちている。

「眠り姫、寝ぼけて好きな人の教室に来ちゃったのかな?」

 いつの間にか隣に並んでいた奈緒が、やはり先走った想像を晴人に耳打ちする。

 姫と形容するにはずいぶん大胆な恰好で寝るんだな……。そんな感想を胸にしまい、晴人は「だから知り合いじゃない」と聞く耳を持たぬ奈緒に対して諦め半分否定した。

「で、どうすんだ?」 

 秀樹が晴人に次の行動を促す。クラスメイト全員から同じ質問されたのかと錯覚するくらいビシビシと視線を感じる。どうやら晴人以外は眠り姫に触れてはいけないという暗黙の了解が出来上がっているらしい。

「……まぁ俺が起こす以外選択肢はないわな。このままじゃ席にも着けない」

 晴人は止めていた足を踏み出した。教室は突然の来客に妙な緊張感が漂っていた。せめて眠り姫の知り合いがひとりでもいてくれたらよかったのだが、『眠り姫』というあだ名がひとり歩きするだけあって、このクラスに少女の友人はいないらしい。眠り姫のつむじが見下ろせる距離になった。昨日の保健室とは逆の立場だ。昨日はこの段階で終わっている。ふたりの関係は、これから一歩先へと進んでいく。

「えっと」

 晴人は控えめな声を眠り姫の後頭部に落とした。

「気持ちよく寝ているところ申し訳ないけど、君の寝場所、俺の机なんだ。いったん起きてくれないかな」

 晴人の呼びかけに、眠り姫の肩がピクリと動いた。

「眠り姫が目を覚ますぞ」

 教室の誰かが言った。

 晴人が後から聞いた話なのだが、眠り姫は一度眠るとチャイムが鳴るまで決して目を覚まず、何人たりとも彼女の眠りを妨げることはできない――と、尾ひれがびっしりと付いているだろう噂から、眠り姫たる名前が冠されたそうだ。決して誇れるわけではない不名誉なあだ名を付けられたその少女は、果たして晴人の呼びかけ一つで目を覚ました。教室がどよめいても無理はない。

「あなたの机?」

 突っ伏したままの眠り姫の声に晴人は聞き覚えがあった。「やっと見つけた」夢で聞いたあの声と瓜二つだ。

 眠り姫が、漆黒の髪を従えてゆっくりと顔を上げた。

 晴人は目を見開いた。昨夜の天女が地上で自分を見上げている。

「君は……」

「あなたの考えているとおりよ、空野晴人くん」

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