第2話 第1章 空の夢 眠り姫と知り合いなのか?
空野晴人は夢を見ていた。雲よりも高い空に漂う晴人の目の前で、妙齢の女性が公園に落ちているような枝をオーケストラの指揮者のごとく華麗に振っている。驚くべきことに、眼下に広がる雲は彼女に付き従っていた。女性の手の動きに合わせて動く雲の動きは雄大で、まるで魚の群れのように空を泳いでいる。今頃地上は良く晴れているだろう。
晴人が口を半開きにして目の前の光景に目を奪われていると、不意に女性が晴人に顔を向けた。自分の夢の中にいるはずなのに、他人からの視線をはっきりと感じる、「見つかった」そんな気分にさせられる。
「これからよろしくね、晴人くん」
女性が優しく微笑むと、晴人の夢はぷつりと途切れた。
「空野、空野晴人!」
図太い声に呼ばれ、晴人は眠りから覚めた。目を開いた視界には、綺麗で優しそうだったあの女性はもちろんおらず、数学の教師が悲しそうな表情で晴人を見下ろしていた。教室には「またか……」と呆れた沈黙に包まれている。またやらかしてしまった、晴人は泣きそうになる。
「ずいぶん気持ち良さそうに眠っていたが、俺は別に子守歌を歌っているわけじゃないんだぞ?」
「もちろんです……」
「それじゃあなぜ空野は居眠りをした? 別に居眠りを絶対にするなとは言わん。俺だって学生の頃には居眠りもした。……もちろん推奨するつもりはないが」牽制するように教師はぐるりと教室全体に視線を巡らせる。「だが最近の空野は酷過ぎるぞ? 毎回じゃないか。そんなに退屈か? 俺の教師としての自信はズタズタだ」
初めてのときは怒られた。それが次第に呆れに変わり、今では心配すらされてしまう始末だ。
「先生の授業が退屈というわけじゃないんです……」
一限目から今の五限目まで、全ての授業で寝ています、とは言える状況ではなかった。
晴人だって授業が退屈で居眠りしているわけではない。気づくと眠っているのだ。そんなのみんな一緒だろ、夜更かしのせいだと一笑に付されてしまうだろうことは承知している。というより既に笑われている。だが違うのだ。晴人は高校一年にもなって未だ夜の十時には床につく。寝不足がどういうものなのかすら知らない我が身だ。中学でも授業中の居眠りは数える程度だった。高校に入学してからだって居眠りをした記憶はない。内申点に響くと耳にして以降注意を払ってきたし、何よりも居眠りをしてしまえば授業に付いて行けなくなる。それなりの進学校ならではの授業ペースにおちおち眠っている暇はない。それがどうだ。この一週間、居眠りを続けている。眠いわけでもない、机に突っ伏していたわけでもない、それなのに気がつくと眠りの世界に迷い込んでいる。あまりに突発的で自分でも気味が悪かった。
そして気になることがもう一つ。同じ夢を見るのだ。
気づくと晴人はいつも雲の上にいた。すわ天国かと思ったこともあったが、何度か教室と行き来しているうちにその考えは却下した。空はひと気がなく寂しいものだったが、雲と一緒にふわふわと空を漂う感覚はまさに夢心地で心地良かった。時々強風に煽られて態勢を崩してしまうこともあったが、今では思いのままに浮かぶ(飛ぶ?)方法を習得していた。
そしてつい先刻の夢である。とうとう夢に人物が現れた。晴人の知らない女性、見た目どおりなら二十歳前後だろうか。見知らぬ相手が自分を知っているという気味の悪さはあるものの、同時に晴人は嬉しさも感じてきた。白状すると、ひとりで空の漂うだけの夢に退屈していたのだ。根拠はないが、晴人は自分の夢が動き出したという確信めいたものを感じていた。
「聞いているのか?」
教師の声に晴人は再び授業中という現実に呼び戻された。教師の顔は苦虫を噛み殺したような表情に変わっている。
「空野、保健室に行ってこい」
「でも」
「いいから」
有無を言わせない迫力だった。保険委員まで付けるという提案には慌てて辞退し、晴人は逃げるように教室を出た。
保健室に養護教諭は不在だった。ベッドは二つ。窓際の一つには先客がいるようでカーテンで閉じられていた。
特に眠気はなかったが教室には戻りにくいとなれば選択肢は一つだけ。晴人はありがたくベッドで横になることにした。
耳元で騒がしさを感じた晴人が目を開くと、クラスメイトの秀樹と奈緒に寝顔を覗きこまれていた。
「おはよう寝ぼすけ」
「大丈夫?」
同時に声を掛けられる。
「今何時?」
聞いておきながら保健室の掛け時計に目をやると五時少し前、既に放課後だった。五限目の数学のみならず、六限目の英語もすっぽかしてしまった。ふたりの背中越しに位置する隣のベッドはカーテンが開いておりもぬけの殻だった。隣の生徒が戻ったことにすら気づかないとは、自分はまたしても深い眠りについていたらしい。ため息が勝手にこぼれる。
視線を移すと、晴人の学校指定の鞄がふたりのそれに並んでベッドの足下部分に置かれていた。
「鞄、ありがとう」
礼を言いながら難なく上半身を持ち上げた晴人を見て、
「体調はもう大丈夫みたいだね」
奈緒は安心したような声を出した。
「そもそもサボりたかっただけ?」
「ちょっと秀樹」
秀樹のからかい口調に奈緒が眉をひそめる。
「別にいいって。実際秀樹の言うとおりだ。眠いなんて理由、サボりと同じさ」
晴人が肩をすくめると、にやけ顔だった秀樹の顔が真剣なそれに一変した。
「俺らからすると、その『眠い』ってのが心配なんだよ。晴人が居眠りするなんて、中学のときはほとんどなかったじゃんか」
秀樹の言葉に心配そうに奈緒も頷いた。
どうなんだ、ふたりの視線に晴人は乾いた笑いを返すことしかできなかった。
心配をかけたくないのだが、これだという原因が自分の中に見あたらない。しかし、そう説明すれば目の前の友人は余計に心配するだろう。相談するにしても自分なりの原因を見つけてから。ひとまず晴人はそう結論付けた。
「心配かけたのは申し訳ないけど、体調が悪いわけでもないから……」
晴人が口ごもったのをどう解釈したのか、秀樹は表情をまたころりと変えて下卑た笑みを浮かべ、晴人の背中をばしんと叩いた。
「あんまり夜更かしばかりしてんじゃねーよ? シてばかりだと将来ハゲるらしいぞ?」
「バカっ! そんなんじゃない」
晴人がムキになって否定したことを図星と受け取り、秀樹は妙に納得したような顔つきで「そうだよな」と何度も頷いた。顔が熱い。ちらりと奈緒に視線を向けると、彼女は気まずそうに黙り込んでいた。
「本当に違うんだって! ほらっ、もう帰ろうぜ」
話は終わりと晴人は内履きをひっかけて鞄を掴みあげる。カーテンの隙間から覗き見える外は陽も暮れてだいぶ暗くなっていた。「マジで悪かったな、こんな遅くまで付き合わせちゃって」
晴人が改めて礼を言うと、「好きでやったことだから」と秀樹も奈緒も笑って答えた。――いい奴らだ。
「そういえば」
保健室から出ていく間際、思い出したように奈緒が言った。「晴人って眠り姫と知り合いなの?」
聞き馴れない単語に晴人は怪訝な顔で聞き返す。
「眠り姫?」
「なんだ晴人、知らないのか?」
秀樹まで意外そうな顔をする。有名な話なのだろうか。
「晴人以上に居眠りする隣のクラスの女子だよ。美女が毎日眠っているから眠り姫。なんの捻りもない安直なあだ名だよ」
隣のクラスとは体育が合同授業だが、もちろん男女別々だ。部活が一緒でもない限り知り合える要素は少ない。教室一つ分の隔たりは帰宅部にとっては別の社会といっても過言ではない。
「で、その眠り姫と俺が知り合いだって? 本人が初耳だけど?」
晴人が質問に答えると、秀樹と奈緒は顔を見合わせ、意味深な笑みを浮かべた。
「なんだよ、気になるじゃないか」
「あのね」
奈緒の瞳の輝きに晴人は悪い予感がした。この顔に変わるとき、提供される話題は中学の頃から常に一つだった。
「その眠り姫が、じっと晴人の寝顔を見つめていたの」
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