番外編その1 伯爵とご隠居
漆黒の闇夜。月は姿を隠し、あたりは闇に支配された世界だった。大きな翼を羽ばたかせ、一人の男が丘に降り立った。
「すべて終わった。お前は高見の見物か」
「
「なんでも見透かすというものは、つまらぬ能力よ。先がわからぬほうが愉快」
「すべてがわかるわけではない。長く生きてくれば、このくらいのことは造作もないことだ。人とは、学習する生き物。老い、失われた能力は経験が補完してくれる」
「下らぬ。その短い人生においての積み重ねなど、なんの意味もなかろうに」
「だから私たちは子らに託すのだ」
男は前に突き出している胸を揺らして「ぽぽぽ」と笑った。
「子か。我が欲望により子を失ったお前が言う言葉か」
「私は後悔はせぬ。これぞ我が人生。だが伯爵には感謝しているのだ。まさか私の願いを聞き届けるとは思わなかった。悪魔にもいいところもあるものよ」
「いいところだと? 愚弄するつもりか」
声の主はくぐもった笑い声をあげた。
「素直に感謝の念を言ったまでよ」
「口に気をつけるがよい。賛辞の言葉には値せぬ。我々はただ。至高の魂を食したいが故、人間と契約を結ぶ。それだけの話ぞ」
「そうか? なら何故、私の魂を食らわぬ。——そうか。こんな老いぼれの魂など、食うに値しない、ということか」
「そうよの」と男は顎に手を当ててから含み笑いを漏らす。
「お前の魂は、まだまだ熟成されるのではないかと期待しているのだよ。若造よ」
「なんと。我の魂が? それは買いかぶりすぎというもの。伯爵」
「いいや。私の見立てが外れたことなど一度もない。お前はこれからもまた、様々な苦難に立ち向かうであろう。お前は、そのために今ここにあるのだ」
「——消えるべき命だったのに、か?」
「だが消えずに残った。まるで悪あがき。お前の人生そのもの。——違うか?」
男は
しかしそれはまるで幻影のよう。開かれた手のひらに浮かんだ光は、再び握りこまれた男の手の中に消えた。ろうそくの火が消えてしまう如く、すぐに消え去る儚きものだった。
「見ていたくはないか」
「無論——。人は誰しもが子孫の繁栄を眺めていたいものだ。年寄のエゴぞ」
「エゴとは人が生きる原動力でもある。良くも悪くもだ。私はお前が好きだ。自分の欲望に弱く、悪あがきばかり。お前はとても人間らしい」
「お前に好かれてもなんの得にもなりはせぬ」
「そうか? 今回ばかりは利益を得たはず。そして我も利益を得る。至高の魂を二つ食することができる。お前といると退屈せぬわ。あの白兎も然り——」
軽く握ったその手の中には、微かに光が残っている。
「似て非なる存在。だが我を楽しませてくれるという点では同じ存在」
「アンドラス侯爵との決着をつけたいか」
「笑止。人間とは愚か。我の興味は至高の魂のみ。侯爵など執着にも値せぬ」
「そうか。それが悪魔たる所以」
「然り」
男は立ち上がると胸を前に突き出して笑った。彼のからだが闇に溶けていく。
「ぽぽぽ。生きよ。そして我を楽しませろ。——リガード」
闇に溶け切ったその姿は、もうここにはない。微塵のかけらすら残さぬ存在。漆黒の闇が消え去れば、そこに残されたのは目が眩むほどの星空だった。
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