第37話 兎と虎は幸せになる



 瞼を持ち上げると、真っ白い天井が見えた。


(ここは——王宮の医療室……)


 エピタフは、見慣れた天井を見つめながら思いを巡らせた。


 月の神殿を後にしたエピタフたちは、王宮軍の総司令本部に戻った。カースやラリが消滅したとは言え、戦いは終わってはいなかったのだ。


 その様子を見ていた凛空りくは歌った。平和への祈りの歌だった。


 歌姫の魂を欠いた彼は、ただの黒猫——。しかし。彼の歌を聞いた者たちは、一人、また一人と武器を捨てた。死の恐怖に支配された兵士たちは、本来の自分を取り戻したのだ。


 それは、新たなる歌姫の誕生であった。凛空は歌姫音の魂を宿していただけではなかった。彼にはそもそも歌姫になりうる素質があった、ということだ。


 混沌としたこの世界には、新しい歌姫の存在が必要だったのだ。


 その後のことをエピタフは覚えていない。どうやら意識を失ったのだろう。原因は度重なる戦いと体調不良だ、とエピタフは思った。


 開かれた窓から見える中庭の花々を眺めていると、扉が開く音がした。こちらに向かって歩いてくる足音に視線を戻すと、そこには老虎とらがいた。


 彼は、煤けたいつもの薄汚れた服ではなく、王宮の兵士が着用する紅色の制服を纏っていた。エピタフは思わず笑ってしまった。


「なんだよ。笑うなって。なんだか慣れなくて、恥ずかしいんだからよ」


「美しい羽は、美しい鳥をつくる。そんな言葉がありますね」


「なんだよ。それ」


 老虎はエピタフのそばの椅子に腰を下ろした。


「気分はどうだ? 無理しすぎなんだ。一人のからだじゃねぇんだからよ」


「一人のからだじゃない……?」


 老虎の腕がそっと伸びてきて、エピタフの下腹部に触れた。


「妊娠——しているんだってよ。大熊猫ぱんだ先生が、症状からして、間違いねぇって。体調悪かったのはそのせいだって。——おれたちの子だ。おれたち二人の……」


 エピタフは目を見開いた。


「子が。子がいるというのですか」


「そうだ」


 エピタフは思わず老虎の手に自分の手を添えた。不思議だった。自分の胎内に、また別の命があるというのだ。確かに。この戦いの間、体の奥底が熱いような気がしていた。それがなんであるか——。今その意味が理解できて、腑に落ちた。


 不意に涙があふれた。そしてそれは留まることがない。老虎は、その指でそっと涙を拭った。


「——悲しいわけではないのです」


「嬉し涙っつーんだよ。そういうの」


「嬉しいと涙するのでしょうか」


「あんた、嬉しくて泣いたことないのか」


「ありません。嬉しかったことなど一つもないのですから」


 老虎は口元を上げて笑みを見せた。


「じゃあ、これからたくさん嬉しい思いさせてやるからよ。おれたちは家族を作るんだ。おれたちだけの。おれたちらしい家族だ」


 老虎は気恥ずかしそうに頬を赤くすると、頭を掻いた。


「本当に子どもってできるんだな。——たった一回なんだけどな」


 エピタフは「まあ」と批判の色を含んだ声を上げた。


「一回? 一回どころではないではないですか!」


「一回は一回だろう?」


「一度というのです。一度の中に、何回も——というのが正しい言い方です」


 エピタフは笑みを見せる。老虎は更に頬を赤くすると、そのたくましい腕を伸ばし、エピタフを包み込むように抱き寄せた。


「なんだっていいんだけど……。本当にすまねぇな。負担かけたよな。そんな大事なからだなのに。あんな危険な目にばっかり遭わせちまった」


「知らなかったのです。私も貴方も。致し方ないことです」


「おれたちの子だからな。ちょっとやそっとじゃへこたれねぇだろう?」


「そうですね」


 窓から差し込む光が、老虎の耳を黄金色に見せる。エピタフには眩しい光だった。


「怖いんだろう?」


「——初めてのことです。この子を無事に生み落とせるのか。そればかりが気がかりです」


「大丈夫だ。あんたの思いと、おれの思いがあれば、無事に生まれてくれるって」


「また。いい加減なことを。——まあいいでしょう。今回ばかりは心配しても致し方ないこと。貴方の言う通りだと思います」


「お! 初めてだな。おれのこと見直しただろう?」


 にやにやと笑みを見せる老虎が愛おしい。エピタフは「ふふ」と笑みを見せた。


「自分の人生は自分で決める。ああ、これが。貴方の言う『自由』ということ。なのですね。私と一緒に歩んでくれるのですか。シーワン」


「そんな下らねえ質問すんなよ! 当然だろう!」


 老虎の答えはわかっている。それでも確認しようとする自分は卑怯だと思いながらも、問わずにはいられない。そして、何度でもそれに応えてくれるのが老虎——希望シーワンという男だった。


「なあ、たくさん子ども作ろうぜ。おれたちだけで一族になるくらいよ」


「嫌ですよ。そんなに」


「いいじゃねえか。おれはあんたと一緒なら、なんだってできる」


「シーワン」


 老虎の頬を指でなぞると、彼は嬉しそうに笑う。


「あんたに名前を呼んでもらうと、たまらなくなるんだぜ」


 エピタフは老虎の首に腕を回し、彼を抱き寄せる。お日様のいい匂いがした。鼻先がぶつかる距離。唇が触れ合うその瞬間。扉が豪快に開いた。


「こらこら。気がついたなら、なぜすぐにおれを呼びに来ない。この使えない虎が」


 そこには大熊猫先生がお腹を揺らして立っていた。


「ち、間が悪いぜ」


「お前は油断も隙もないだろうが」


 先生は腕まくりをしながら近づいてきたかと思うと、エピタフにかかる寝具を剥ぐ。それから、彼の裾をめくり上げた。エピタフの陶器のような脚が露わになる。驚いた老虎は、目を白黒させて先生に掴みかかる。


「おうおうおう。何すんだよ?」


「内診するんだ。子が元気かどうか」


「やめろ! 触るな。おれのつがいだぞ! どこ触る気してんだ、この変態野郎!」


 老虎は必死に抵抗するが、大熊猫先生はまるで風船のようにつかみどころがない。老虎はあっという間に、そのお腹に弾かれて床に転がった。


「痛てぇじゃねぇか!」


「ああ、うるさいな。エピタフに嫌われるぞ!」


 先生は「ふん」と鼻で息を吐くと、床に転がった老虎を冷ややかな視線で見下ろした。それからエピタフに「旦那が馬鹿だと、お前さんも大変だな」と言った。


「お馬鹿さんですからね。シーワンは」


「クソ野郎ーー!」


 自分のことを笑う二人を見て、老虎は悔しそうに床を叩いた。


「エピタフ。虎族を相手にするには、並大抵のことではないぞ。虎族同士ですら、交尾の苦痛で殺し合いが起こるくらいだからな」


「確かに。虎族の交尾はひどいものです。しかし先生もご存じでしょう? 兎族は年中発情期。数日に一回は交尾しないといけない種族ですよ。シーワンは私についてこられるでしょうか」


「な、なんだよ。なんでそれを教えねぇんだよ。それこそ、受けて立つぜ!おれは毎日でもあんたと……」


「そうなるからですよ! あの苦痛はまだしも、そう何度も妊娠させられたのでは困ります。職務に支障をきたしますからね。秘密にしていただけです」


「ちぇー! 職務、職務ってよ」


「こら、老虎。そう嫉妬するでない。そんなこと言ったって、エピタフはすっかりお前さんを受け入れてくれいるんだ。それで良しとしろ」


 先生は両手を叩いて笑った。老虎は弱ったように頭をかく。エピタフは微笑を浮かべていた。


「老虎。お前のすべてを受け入れてくれる奴なんて、国中探してもなかなか見つからないだろう。大事にしろよ」


「お、おうよ! なんだかよくわからねぇけど。任せておけって!」


 老虎の笑みは眩しい。お腹の中の熱を感じながら、エピタフの空っぽな心は、愛情で満たされていた。












 



 


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