第26話 虎族の長、俊豪(チンハオ)
「兄貴。——久しぶりだな」
老虎の視線は男に釘付けだった。
(この男が虎族の
「なにをしに帰ってきた。このバカ弟よ」
老虎よりも幾分低いその声は、獣の咆哮のようにも聞こえる。ビリビリと空気が震えるようだ。エピタフは殺気を感じ、背筋が凍るような感覚に陥っていた。色々な修羅場を潜り抜けてきた。しかし、今まで対峙してきた相手とはまた違った、危険な匂いを感じた。
(この男は危険だ)
老虎に何事かが起きた時、加勢できるようにと、少々身構える。それから周囲の様子に気を配った。ここは虎族の野営テントだ。当然、虎族しかいない。そう思っていたのだが——。ふと、彼の視線は老虎の兄の背後にいる人物に止まる。
虎族とは思えぬ小柄な体格だが、頭のてっぺんから覆われている黒衣により、姿形を確認することはできなかった。彼の気配を探ろうと、意識を集中させようとしたその時。老虎の声が響く。エピタフの意識は、あっという間にそちらに引き戻された。
「兄貴。飛び出したことは悪かったと思っているんだ」
老虎は、いつもは見せぬ少し弱気な声色だった。兄には頭が上がらないのだろう。老虎にもそんな可愛らしいところがあるのか。エピタフは緊迫した場面であるのにも関わらず、思わず口元を緩めた。
「お前、おれたちの今の状況をわかっていて、そんな呑気なことを言いに来たのか? わざわざ遠征の野営まで。もしそうだったら、噛み殺すぞ」
「違う! おれは……。おれはこの戦いを止めたいんだ」
「戦いを止める——だと?」
騒ぎを聞きつけ集まってきた虎族たちは互いに視線を交わしながら囁き合っている。
「あいつが来たなら、百人力だろう?」
「バカ。チンハオが許すわけがないじゃないか。処罰されるに決まっている——」
そんな囁きがエピタフの耳を掠める。
(シーワンにとって、この場は不利だ)
ここでなにかを手助けをするのは、得策ではない。これは老虎の戦いなのだ。
「お前はなにを寝ぼけたことを言っている。しばらく一族を離れ、腰抜けになったようだな。一度振り上げたこぶしを下ろすなどという不名誉なことが、おれたち一族にできるわけがなかろう」
チンハオは老虎をじっと見据えていた。その瞳は黄金色から空色に変化する。虎族は怒りや興奮で瞳の色を変えるという。エピタフとの交尾の最中も、老虎の瞳の色は空色になったことを思い出す。
「兄貴たちは、カースに踊らされているだけだ。カースは自分の欲のためだけに、おれたち獣族を利用しているだけなんだ」
「獣族は常に地方に追いやられ、人間どもの都合のいいように政が行われてきたのだ。今、立ち上がらずに、いつ立ち上がる。おれたちは、人間には飼いならされない種族だ!」
「違う。そうじゃない。どっちが上か下かなんて、関係ねぇ。おれは王都で獣族と人間たちが手を取り合える世界を作るために——」
「それで五年も留守にして、なにが変わった。お前は学ぶことを放棄し、なにをしてきた? 五年前と今とで、なにが変わった。なにも変わりはしないではないか! お前のしていることは茶番だ。ただの自己満足のお遊びだ。違うか?」
「違う! おれたちの仲間は必死に戦って——」
「なんの意味もなさぬ犠牲は、無駄な死と一緒ではないか」
「無駄、だと?」
今度は老虎の瞳の色も空色に変わった。
「お前たちのやっていることは無駄としか言いようがないではないか。無駄だ。無駄死にだ。おれたちは王都に攻め入って、仕組みを変える。生半可なやり方では、もう無理だ。人間どもを追いやり、そして我々獣族、連合軍でこの国の政権を担うのだ」
「それじゃあ、人間たちとやっていることは一緒じゃねぇか!」
老虎は憤った。拳を作り、今にもチンハオに殴りかかる勢いだった。
「力で手に入れたものはなんの意味もなさねぇ。憎しみは憎しみしか生まねぇ。おれたちが政権を獲ったって、きっとまた、人間たちが戦いを起こすだけだ」
「だったら潰せばいい。何度も何度も。おれたちがそうされてきたように、人間どもにも思い知らせてやればいい」
「兄貴!」
老虎はチンハオに掴みかかろうとするが、それはかなわない。そばにいた兵士たちが更に老虎を抑え込み、彼は地面にねじ伏せられたのだ。
「お前は人間と組んで革命組など、ふざけた組織に身を投じていたから、すっかり甘い考えになってしまったのだろう。こいつは捕らえておけ。この戦いが終わったら、処遇を決める。一族を裏切った罰を受けさせる」
「兄貴! ダメだ。そんなこと。仲間を殺す気か! カースは獣族が勝利したあかつきに、この世界を獣族に引き渡すつもりなんてねーんだぞ! 次はおれたちが滅ぼされる。あいつは相当イカれた野郎なんだぞ!」
老虎の言葉に、そこにいたみんなが困惑していた。
「確かに。あの男は後ろ暗い」
「信用していいのかどうか、怪しいと思っていたが」
チンハオは右手を斜め上に持ち上げると「やめい」と一喝した。その声は地の底から響いてくるような重みがあった。騒々しくなっていた場は、一気に静まり返った。
「おれはカースを信頼している。おれたち虎族は、カースに全てを預けたのだ」
エピタフは、チンハオが後ろに控えていた黒衣の男に視線をくれたのを見逃さなかった。
(邪悪な気配がする——)
この気分が悪くなるような禍々しいオーラが、黒衣の男を中心にこの場に満ちている。チンハオは話の途中で、かなりこの男を意識しているようにも見受けられた。
「こいつを拘束しておけ。それからそっちの客人もな」
チンハオはエピタフを見据えた。エピタフは両手を上げる。ここで暴れても致し方がないと判断したのだ。隣にいた虎族の男は、エピタフの両腕を背中で縛り上げた。
「へへ。いい匂いがするぜ。あんたどんな顔をしてるんだ?」
「やめろ! そいつは、おれの——おれのつがいだ!」
老虎の制止にもかかわらず、エピタフのローブが外された。松明の灯りにに照らされて、雪白の耳が露わになると、そこにいた虎族から感嘆の声が洩れた。
「兎族だと?」
「なんと美しい——」
興味本位で下卑た視線に晒されることは慣れている。別に心動かすようなことでもない。だが老虎は違う。彼はからだを大きくし、怒りに支配されているようだった。
(いけない。今ここで我を失うのは得策ではない)
「シーワン! いけません!」
老虎は自分を拘束していた虎族を跳ねのけた。その力は凄まじい。彼はそのままエピタフを助けようと駆け出した。しかし——老虎はそこから一歩も前に進むことが出来なくなった。チンハオの太い腕が伸び、老虎の首根っこを捕まえると、軽々と地面にねじ伏せたのだ。
「離せ! 兄貴! おれのつがいには指一本触れるな! その人は関係ねぇ」
「黙れ。シーワン。このバカ弟め。つがいなどにうつつを抜かすか——」
「シーワン、おやめなさい。今は——今は長の命に従うのです」
エピタフは低い声で老虎に言った。彼は悔しそうに歯を食いしばった。大人しくなった老虎の様子に、チンハオはそばにいた仲間に言いつけた。
「二人を拘束し、しっかり見張りをつけろ。明日朝には王都に向け出立する。野営は今晩が最後だ。明日昼前には王都に到着する。ゆっくりからだを休めろ。決戦は明日だ」
チンハオは踵を返すと黒衣の男を従えて、テントに姿を消す。去り際、彼の瞳がエピタフを捉えた。エピタフもその瞳を見返した。シャオドンは「け」と唾を吐く。
「来るのが遅いんだよ。お前は。テントの奥で指でもくわえて見ていろ。今回の戦い、一番の功績を上げるのはおれだ」
老虎は両脇を抱えられ、エピタフと共に連行された。
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