第22話 言い知れぬ悦び


 混乱している気持ちを振り払うように、エピタフは首を横に振った。


(この男に流されてはいけない。この男は危険だ——)


 エピタフは自分を保とうと、必死に言葉を紡ぐ。


「私は……、つがいなど持ちません。私が、つがいを持つということは、この呪われた兎の血が。この血が……我が一族の中で継承されていくということです。私はそれを良しとしません。

 我が一族の名誉にかけて、——たとえ、一族の血が絶えようとも、この呪われた血を残すつもりは……ありません」


「呪われた血って……。あんたがつがいを見つけなかったら、魔法大臣はどうなるんだよ? 一族は死に絶えるんじゃねぇのか」


 老虎とらはエピタフの腕をつかんだ。その手は力強くて熱い。エピタフの意識は、すっかり老虎に惑わされている。目の前がぐらぐらとして、眩暈で振られていた。


「な、なにを……。離しなさい。構いません。そもそも、祖父が始めた狂気じみたことです。大臣家で、建国以来の血筋を守っているのは、魔法省、軍事省、司法省くらいの話です。我が一族が停止に追い込まれたとしても、特に珍しいことではありません」


 老虎は眉間に皺を寄せて「そんな簡単な話じゃねぇだろう」と吐き捨てた。


「貴方には関係のない話です。これは私個人の問題で——」


「いい加減にしろよ! 本当にイラつくぜ。自分一人でなんでもかんでも決めて。あんたには相談できる奴がたくさんいるはずだ。あんたは心配してくれる仲間の気持ちも無視して、自分勝手すぎるぜ」


 エピタフは言葉を失った。老虎は大きくため息を吐いてから、視線をエピタフに戻した。


「あんたの言っていることは矛盾だらけだぜ。家を守りてぇのか。家をぶっ潰してぇのか。一体、どっちなんだよ?」


「それは。……わかりません。ああ、そう言われると、私はどうしたいのでしょうか……」


 エピタフはなんだかおかしな気持ちになった。思わず笑みが洩れた。


「なんてことでしょうか。貴方のような人に指摘されるなんて……」


「悪かったな。どうせおれは頭が悪い野郎だよ」


 心に引っかかっていた重いものが、すっと軽くなるような気持ちになった。自分は一体なにで悩んでいたというのだろうか。


「私は、私と同じ思いを、子たちにさせたくない。そればかりを考えていたのです」


「なら、そうしなきゃいい。あんたがその子たちを守ればいい」


(そうですね。私が。私がどうあるべきか。それだけの話なのかも知れません。この野生の虎に諭されるなんて……)


 エピタフはそっと視線を持ち上げた。その瞬間。彼の唇が自分の唇に重なった。エピタフは思わず顔を背けようとするが、老虎はそれを許さない。押し返そうとする腕を取り、さらに深く口づけをしてくる。


 ざらついた舌の感触に目をつむると、ふとその唇が離れていった。


「おれのつがいになってくれよ。おれはあんたを守るから。あんたがしてもらいたかったことを、子どもにたくさんしてやろうぜ」


「な、なにを——」


 驚きと恥ずかしさで耳まで熱くなった。老虎に握られた腕が、灼けるように熱く感じられる。老虎の低い、それでいて優しい声が、夢現のように聞こえてきた。


希望シーワン——。そうです。あの時……私に名を告げたのはこの男だったのだ)


 生死の境を彷徨った時も、彼は自分のそばにいたのだ。エピタフは老虎を見上げた。


「おれは、あんたのことをつがいにしたい。近くにいると堪らねえんだ。これっておれたちがつがいになる運命だったって証拠じゃねぇのか。あんたは、おれのそばにいて、なんとも感じないのか?」


 エピタフの心臓は跳ねあがった。今まで真実として受け止めきれずに蓋をしてきたことだ。老虎のそばにいると、からだの奥底が落ち着かなくなるという事実。それはきっと——。


(私のつがいが、この男だという証拠——だとでもいうのか?)


 エピタフは必死で言葉を紡いだ。この現実を受け止める心の余裕はなかった。突然降って湧いたような出来事に、エピタフの心は、ともかく混乱していた。この事実を受け止めたくない。


「貴方と私は敵ですよ? それにほら。こんなに喧嘩ばかりではないですか」


 エピタフは必死に言葉を探した。いつもは冷静に対応できるはずなのに、狼狽えていた。自分の混乱とは対照的に、目の前の老虎の目は静かに落ち着きを払った色をしていた。彼の覚悟が見て取れて、余計に心が騒がしくなった。


「関係ねえ。ずっとあんたのことが気になっていた。どうしてもあんたから目が離せねぇ」


「少しばかり仲直りしたからと言って、調子に乗るのはやめてください——」


「仲直りか。可愛いことを言ってくれるじゃねえか。エピタフ」


 老虎に名を呼ばれると、心臓が跳ね上がった。他人に名を呼ばれることなど、なにも珍しいことでもなんでもない。なのに——。


 なぜだ。この男に名を呼ばれると、この男に支配されているような、それでいて、胸がぎゅっと締めつけられるような恍惚感に支配される。


 自分はサブライムが好きだった。サブライムのつがいになることを夢みたこともある。獣族である自分が、王のつがいになれるなど、断じてないことを知っていてもなお、心のどこかで彼を求めていた——はずだった。なのに。


 目の前にいるこの男の瞳に見据えられると、まるで心が丸裸にされたみたいになる。今まで必死に覆い隠してきたことすら見透かされ、そしてそれらすべてを受け止めてくれる男だ。


 自分が自分ではなくなってしまうような感覚——。


(おじい様。貴方もこんな気持ちになったのでしょうか?)


 祖父であるリガードは、王宮の古い慣習などものともせず、兎族の長であった祖母のクレセントを口説き落としたという。恋は盲目——。後先考えない若気の至り。そう思っていた。しかし今なら、なんとなく彼の気持ちも理解できた。


 目の前にいる黄金色の瞳に見据えられると、言葉を失った。まるで肉食獣に狙われた草食動物だ。


 ギラギラとしたその輝きにすっかり引き込まれると、からだじゅうの力が抜けるような気がした。老虎からはとても魅惑的な匂いがする。彼の匂いはエピタフの頭の芯を刺激して思考をする能力を麻痺させる。


(これが真のつがい。抗うことができない。互いに惹かれ合うのは本能。そこに利害関係など一切存在しないのだ——)


 恋愛小説の一節が過る。老虎の唇がエピタフの首筋に触れた。くすぐったいようなその感触に、思わず吐息が洩れた。


(サブライム。貴方もきっと、凛空りくのことをこんな風に恋焦がれているのですね。やはり、あなたのつがいは私ではなかった——私のつがいは……。私の真のつがいは——)


「シーワン」


 彼の名を呼んだ。老虎は嬉しそうに瞳を輝かせる。「嬉しい」とからだじゅうで表現しているかのようだ。そんな彼を見ていると、エピタフの心は言い知れぬ悦びに支配された。




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