第19話 切ない恋心
血の匂いだけではない。フェロモンの匂いだけではない。
「落ち着いて、エピタフ。老虎はね。確かに不躾で乱暴だけど……」
「なんだ。不躾で乱暴で悪かったな」
(よくわかっているじゃねぇか!)
「ありがとよ」と言いたい気持ちを凛空に向けるが、彼は老虎を無視するかのように言葉を続けた。
「けどね。エピタフを助けたのは事実だ。ね、そのことについて、ちゃんと『ありがとう』しないと。——それから、老虎も老虎だからね!」
「なんだよ。おれかよ?」
凛空の矛先が自分に向いたので、慌てて彼を見下ろした。
「もっとなんで素直に話ができないのかな~。本当は老虎だって『ありがとう』が言いたいんじゃないの? 手の傷。エピタフは瀕死の状態だったのに治療してくれたんでしょう? ねえ、本当はそれで、こうしてお世話しにきているんじゃないの?」
老虎はふと自分の手のひらを見つめた。あの時——。闇の魔法に触れたおかげで、焼けただれ、激痛に襲われたこの手のひらを治してくれたのはエピタフだ。あの時のエピタフの光は老虎の心をぽっかりと暖めてくれた。
彼の振る舞いは周囲に冷たい印象を与える。決して幸せな人生ではなかったのだろう。けれど、だからこそ人の痛みが理解できる人なのかも知れないのだ。
凛空みたいな幼い黒猫に諭されるなんて、とっても恥ずかしい話だが、彼の言うことは最もだ、と思った。老虎は視線をそらし、それから感謝の言葉を述べた。
「あの時は助かったぜ」
すると、蒼白なエピタフの頬が朱色に染まる。まるで恥じらっている乙女のようなしぐさに、老虎の心臓は口から飛び出しそうになった。
「あ、貴方を助けた、と言いますけれど、その時のことはよく覚えていません。私のしたことが、貴方のためになったならば、それはそれでよかったのかも……しれません」
エピタフは消え入りそうな声でそう言った。老虎の耳元でドキドキと心臓の拍動音が響く。まるで心臓が耳元にあるような気がした。
「それから、朦朧としている意識の中、ふわふわとしたものに包まれていたような記憶があります。——そうですか。貴方があの戦禍の中、私を救ってくださったのですね。ありがとうございました」
エピタフはすらりと伸ばした背筋を前に倒す。老虎の目の前に現れた蒼白なうなじからは、どこともなくいい香りがしていた。
「べ、別にいいけどよ」
(くそ。このままここにいたんじゃ……!)
老虎は、凛空にエピタフの食事の世話を押しつけることに決めた。しかし凛空のほうが先に立ち上がった。
「お……おうおう! どこ行くんだよ」
「お邪魔みたいだから行くね」
「お邪魔ってなんだよ。意味がわからねーし。おい! お前が食べさせていけ」
老虎は狼狽えた。しかし、後ろからエピタフの鋭い声が飛んでくる。
「貴方は私の介抱にいらしたんですよね? それを凛空に押しつけようとするのですか? なんと無責任な」
「う、うるせーな。なんなんだよ。おれが食わせる飯はいらねえって言ったくせによお」
「そうです。いりませんけれども。一度やると決めたことを投げ出すなど、虎族の名を汚す行為だと思ったまでです」
「なんなんだよー!」
老虎は頭を抱えた。エピタフに気を取られている間に、凛空はいつのまにか部屋から出て行ってしまっている。結局、食事の世話をするのは自分か、と思うと腑に落ちない気持ちになった。老虎は大きくため息を吐いてから、どっかりと椅子に座りなおした。
「クソ野郎」
「言葉遣いが悪すぎます。虎族とはそんな言葉を使うのですか」
「虎族のことをバカにするなよ。兎め。その耳の毛皮でマフラー作ってよ、おれの首に巻いてやる」
「野蛮ですね。あなたの首の太さでは、回り切らないじゃないですか」
「じゃあ、しっぽもだ」
顔をしかめるエピタフを見てから、再びため息を吐き、テーブルの上に乗せたお盆から、パンを取り上げた。
「ほれよ」
「ちぎってください」
「かぶりつけばいいだろうがよ」
「そういう食べ方は致しません」
老虎は舌打ちをしてから、固くなったパンと小さくちぎり、そしてエピタフに差し出した。彼はじっと老虎を見据えていたが、そっと唇を寄せてそれを口に含んだ。
「何日ぶりの食事でしょうか」
「かれこれ一週間近くは経つぜ」
「そうですか。——次はそのりんごが食べたいです。それも小さくしていただきたいです」
「我儘なお嬢さんだぜ。お、わかった。おれが噛んで小さくしてやろうか?」
老虎の提案に、エピタフは無表情で返してくる。
「じょ、冗談に決まってるだろ」
「冗談は顔だけにしてください」
「おおい、勝手なことばっかり言ってんじゃねぇぞ」
老虎はぐっと唇をかみしめてから、そっと彼の顔色を伺った。ここに運び込まれた後。互いに名を告げた。あの時のことを、彼は覚えているのだろうか。
「あんたがここに来て、初めて目を覚ました時のこと。覚えているのか」
老虎はおずおずと尋ねた。エピタフは「なんの話ですか」と問うた。
「——いや。いい。あんた、朦朧としていたみたいだったからな」
「ですから。なんのお話なのでしょうか」
「……いや。いいや。忘れてくれ」
老虎が俯くと、エピタフは
「恋愛小説? なぜこれを私に」
「知らねぇし。先生の差し入れだとよ」
「恋などしたことはありませんし、これから先も興味もない話ですが」
「——そうかよ……」
老虎は更に暗い気持ちになりながら、エピタフに少しずつりんごを与えた。彼の両手には包帯がまかれていた。これでは身の回りのことをするのは難しいだろう。
「先生の治療はまどろっこしいんだよ。魔法なら、ちゃっちゃと治せるのによ」
「大熊猫先生のことは承知しています。魔法に頼らず、本人の力に任せる自然の治癒法を提唱している方です。——私は尊敬します」
「なんでだよ」
「魔法とは対価が付き纏います。自然の力を捻じ曲げるのですから、それ相応の対価が伴うのです。我が一族に不幸ばかり訪れるのは、そういう意味もあるのかもしれません……」
「あんたは、国一番の魔法使いなんだろう? そんな奴が、そんなこと言っていいのかよ」
「さあ。私は一族からすればはみ出し者ですからね。かなり風変りなのかも知れませんね」
エピタフの唇は幾分朱色を取り戻している。ここに運び込まれたときは、ほとんど血の気もなく、まるで死人のようだった。その唇が軽く引かれ、微笑を浮かべている様は、老虎には溜まらなく魅惑的に見えるのに——。
(おれたちは、真のつがいじゃねぇのかも知れないのか……)
老虎は更に気持ちが沈み込んだ。小さく首を横に振って、その気持ちを振り払う。
「ちぇ。ちゃんと食えよ。早く良くなってもらわねーと。おれもお役御免にならねえだろう……」
老虎は小さくそう言うと、エピタフの口に食餌を与えた。
(人を好きになるって、辛れぇんだな。先生……)
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