第16話 名



 じっと眺めていると、ふとエピタフの唇から声が洩れた。


「目が覚めたのか」


 老虎とらはそっと声をかける。銀色の長い睫毛が震え、いつもは輝くような紅玉の瞳は精気がなく、色褪せ光もなかった。


「こ……こは?」


「革命組のアジトだ。あんたは太陽の塔で、黒い魔術師に痛めつけられたんだぞ。あんたたちはバカだ。罠かも知れねえ場所なのに。王様と二人だけってよ。いくら自分たちが強いからって、過信すぎるだろうが……」


 しばしの沈黙の後、エピタフは老虎の袖を握った。彼の瞳は宙を彷徨う。老虎を見てはいなかった。


「サブライムは? ——凛空りくは……? 二人は、無事なのでしょうか……」


(自分の心配より、あの王様が優先かよ)


 老虎は舌打ちをした。


「あんな野良猫みたいなやつの心配よりも、自分の心配をしろ。あんたは死にかけたんだぞ」


「私の命など、なんの意味もない物です。それよりも、王や歌姫を——」


「おい! ふざけんな!」


 熱に浮かされたように紡がれる言葉を遮った。エピタフは、我に返ったかのように、老虎に視線を向けた。


「貴方は……?」


「何度も会っているんだ。覚えてんだろ? おれのこと」


「——革命組の虎」


「そうだ。……本当は別に名前があるんだけどよ。みんなはおれを老虎って呼ぶぜ。おれたち一族の故郷では、自分たちの一族のことを老いた虎と書いて、『とら』って呼ぶんだ」


 エピタフの瞳は老虎を不思議そうに見上げていた。


「本当の名が別にある……? なんという名ですか」


「そんなこと、どうでもいい」


「どうでもよくはありません。生まれた時に、ご両親が付けた名を捨て去るなど、決して、してはいけないことです。自分の名を大事にしなければなりません」


(そんなこと、言われたこともねぇけどよ……)


 老虎は困惑していた。自分の名など、ここ何年も、誰からも呼ばれていないからだ。


(おれの名は一体、なんだったかな?)


 子どもの頃の遥か昔の記憶に想いを馳せる。


 ——希望シーワン


 遥か昔に聞いた、母親の声が耳の奥底で響いてくるようだ。


 ——シーワン。


 仲間たちが呼ぶ声が耳に響く。


(そうだ。おれは——)


「シーワン……。希望という意味だ」


「——いい名です」


 老虎は視線を伏せた。それから「そういうあんたは?」と尋ねた。


「私はエピタフ。墓標という意味です」


「墓標って……」


「私は生まれてきてはいけない子だったのでしょうね」


「な、なんでだよ……」


「王宮の血族の中に、獣族の特徴を宿した子などは不要だった」


「はあ? 意味わかんねえし。自分が獣族と交わったんじゃないのかよ」


「違います。獣族——兎族をつがいにしたのは祖父です。本来であれば、父が兎族の特徴を持って生まれてもよかったのです。しかし父は人間として生まれてきた。その代わり私が。私にその血が強く現れた——」


「あんた——いや。エピタフは王宮にいて辛くねえのか。王宮ってところは人間がうじゃうじゃして、獣族は奴隷みたいに扱われると聞いているぞ」


 老虎はじっとエピタフの瞳を見つめていた。その紅玉のような瞳からは、一筋の涙が零れ落ちた。


「生まれた時からそこにいました。なぜ自分がこのような姿になったのか。祖父を呪いました。そして、私を疎ましく思い去っていった父を、母を憎みました。けれども、その運命を変えることも、抗うことも、私にはできません。

 私は王宮の意のままに生きることしかできない臆病者——なのかも知れません」


「臆病者ってよ……」


 あの暗闇に包まれた王都を縦横無尽に駆けまわり、革命組を捕獲していくエピタフの姿は優雅で美しい。どこか血の通わぬ冷たさの中に、非道な雰囲気すら感じさせるはずなのに、老虎は彼のそのすらりとした姿かたちに目を奪われることばかりだった。


「あんたは勇敢だ。そして綺麗だ」


「——この容姿は祖母に似ているそうです。彼もまた、アルビノという種類で、もともと色素がない。髪は銀色になり、瞳の色は血の色である紅玉色になる。この容姿は物珍しく、なにかと悪目立ちをします。私は嫌いです」


「そうか。おれは好きだ。あんたは綺麗だ」


「シーワン」


「その名で呼ぶなよ。気恥ずかしいだろう」


「そう言われると、敢えて呼んでみたくなるものですね」


「本当に性格が悪いんだな。おれたちの仲間、酷い目に合わせていねえだろうな?」


「大丈夫です。ピスが……安全な場所でかくまっていますから。モデスティの手に落ちるようなことがないように——」


 エピタフはそう答えると、まるで誘われるかのように目を閉じ、そのまま眠りについた。


「おおい。おいおい。ピスって誰だ。モデスティって誰だよ、この野郎!」


 しかしエピタフは深い眠りに就いてしまったようだ。ほんの一時の覚醒だったのだろう。彼にとったら、夢現の出来事なのかも知れない。老虎は諦めて大きくため息を吐く。


 仄かに朱色を帯びてきた唇の合間から、自分の名が聴こえる度に心臓が跳ねるのは現実だ。


「くそ。ああ、もうわかった。おれはあんたに夢中だよ!」


 軽く寝息が聞こえる口元に唇を寄せ、それから軽く触れた。


(ああ、このまま、おれは——)


 そう思った瞬間。後ろ手に扉が開く音がした。


「こらこら。老虎。弱った白兎に手を出しちゃいかんぞ」


 そこには大熊猫ぱんだ先生が呆れた表情で立っていた。


「お、おれは別に」


「まったく。血の匂いが充満しているからな。過ちを犯さないかと見張りに来てみれば。さっそくか」


「な、なにもしてねえぞ」


「そうか? その態勢で言われてもな」


 大熊猫先生は「はっはっは」と大きな声で笑った。老虎は両手をベッドにつき、エピタフに伸し掛かるような態勢のまま固まっていた。


「いや。いい。お前の本能がその兎をつがいにしたいと言っているのか?」


 大熊猫先生は、太い手を差し出す。


「次の薬だ。夕飯の時間になったら、起こして飲ませろ」


 老虎は、はっとして机の上に置き去りにされている薬に視線を遣った。それに釣られるように視線を追った大熊猫先生は、飲ませ損ねた薬の袋を見て、大きくため息を吐いた。


「看病も出来ないのか。このバカ虎が。看病から外すぞ」


「ダメだ。おれがやる」


(他の奴らになんか触れさせるか!)


 大熊猫先生は再び大きな声で笑った。


「そう言うと思ったぞ。老虎」


 大熊猫先生は老虎の肩をバシバシと叩いた。


「兎族というのは年中発情期だ。いい匂いがしてお前を誘っているのではないか? 原因はそれだ。お前は血と、そのフェロモンの匂いに惑わされている」


「真のつがいってやつとは違うって言うのか?」


「さてね。私は真のつがいってヤツにお目見えしたことがないからな。どんな感覚になるのか知らないが。強烈な酒でも煽って、ふらふらになったような状況になるんじゃないのか?」


 老虎は顔が熱くなる。先生はにやにやと愉快そうな笑みを見せた。


「それはお前自身が本能で理解することだ。だがしかし——お前たちが本当の真のつがいならば、相手も同じ気持ちになっているはずだ。この白兎がお前のことをなんとも思っていないのなら——それはお前さんの、勝手な独りよがりかもしれないな。

 気をつけろ。兎族は高確率で孕む。よく考えて行動するんだ。老虎」


 先生は肩を竦めてから、部屋を出て行く。その途中、ふと思い出したように声を上げた。


「この白兎は美しい。兎族の中でも群を抜くだろう。だが、美しいバラには棘があるのと一緒で、中身はかなりのじゃじゃ馬だ。魔法省の大臣だぞ? 国一の魔法の使い手だ。本調子に戻ったら、お前なんて一捻りされてしまうだろうよ」


「そ、そんなのわかってるよ」


「余計なお世話かもしれないがね。若者は無鉄砲だからな」


 大熊猫先生は、にやりと口元を上げると、そのまま部屋を出て行った。いつまでも寝息を立てているエピタフを見下ろして、老虎は軽くため息を吐いた。




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