第14話 甘い香り



「うおおおお、なんだよこれぇ!」


 この剣にまとわりついている紫の光に触れた瞬間。まるで火傷でもしたかのように、老虎とらの手のひらが煙を上げた。ジリジリと灼けつく痛みが襲ってくる。しかし、そんなことにかまけてはいられなかった。


 地面はぐらぐらと揺れ続けている。塔は崩壊する。いつまでもここにはいられないのだ。


 老虎は力任せにその剣を引き抜くと、そばに投げ捨てた。それから、次の剣に手をかける。再び手の平がジリジリと灼けるように感じられたが、もうどうだっていい、と思った。老虎は更にもう一本の剣も引き抜いた。それから、もう一本……。


 エピタフの傷口から血があふれた。適切な処置を施さないと、彼は確実に死ぬだろう。老虎は自分の上着を脱ぐと、それを傷口にぐっと巻きつけた。それから彼を抱きかかえて走り出す。


 出口を目指し走りながら、スティールに視線を遣った。塔の崩壊は中心部に及ぶ。カースは足元を取られているようで、思うように動けてはいない。その隙に、彼は凛空りくを連れて脱出しようとしているようだった。しかし——彼の目の前に大柄な男が立ちふさがった。


(あれは——スティールの親父!)


 剣を構え、スティールの行く手を阻むのは、彼の父親である軍事大臣のモデスティだ。王宮の人間であるはずの彼が、なぜカースに加担するのか。老虎には、難しいことはわからない。


 しかしきっと、親子の問題なのかも知れない。エピタフを抱えている自分は、正直に言うと戦力外だ。今はともかく、ここから脱出することが先決だ。


(スティールなら大丈夫だ)


 老虎は出口を目指して走った。途中、仲間たちに「退避しろ」と声をかける。誰一人欠けることなく、塔を脱出するのだ。


 老虎は開けた穴のところに積みあがっている瓦礫をよじ登り、飛空艇に待機していたシェイドたちにエピタフを預けると、振り返ってスティールを確認した。


 彼は上手く父親を交わし、凛空を抱えてこちらに向かってきていた。


「スティール!」


 老虎の差し出した手を、スティールはしっかりと握り返した。スティールと凛空を力任せに引っ張り上げ、それから一緒に飛空艇に乗り込んだ。


「これで最後だ。出してくれ」


 スティールの言葉に、飛空艇は塔を離れていった。あっという間の脱出劇であった——。


 太陽の塔は栄光の象徴だった。天高く伸びたその塔は、神の元へと近づきたいという地上の者たちの欲望の形だ。それが今まさに。ガラクタのように崩れ落ちていく。飛空艇は速度を上げ、塔からぐんぐんと離れていった。


 両手の痛みがひどかった。ジリジリとまるで焼けただれたみたいに。耐えがたい苦痛だった。


「痛てぇ、くそ……!」


 老虎は痛みに耐えようと奥歯を噛みしめた。


「老虎! 大丈夫か?」


 シェイドたちが、右往左往している中、ふと蒼白な手が伸びてきた。その手は、深い傷があり、血で汚れている。けれど、その手が老虎の手のひらに触れた瞬間。黄金色の光が優しく灯る。


「あんた……」


 甲板に寝かされているエピタフは意識が朦朧としているのだろう。視線が定まらない。それなのに、彼は老虎のその手を治療しようとしてくれているのだ。


「やめろ。力を使うな」


 エピタフは首を小さく横に振った。その光はだんだんと暖かさを増し、そして老虎の傷ついた手を包み込んだ。


(暖けぇな)


 氷のように冷たい男だと思っていた。宝玉のような瞳は、なんの感情も感じられない。凛とした態度に、いつも翻弄されてばかりだった。けれど。その光はとても暖かく、そして心にじんわりとしみこんでくるような光だった。


(あんた。本当は……)


 老虎の手のひらの痛みが和らぐと同時に、その光は消え、そしてエピタフの腕が床に垂れた。


「おい! しっかりしろよ」


 老虎はエピタフの周囲にいたメンバーを押しのけて、そっとその口元に頬を寄せる。


(息してねぇ!)


 思わず、彼のその唇に自分の唇を重ねて、息を吹き込んだ。それから、すぐに彼の胸の中心を両手を合わせて何度か押す。老虎はそれを何度も何度も繰り返した。


「どうしたらいいんだよ」


 老虎はアジトにいる大熊猫ぱんだ先生の言葉を思い返す。


『いいか。老虎。瀕死の奴を見つけた時は、冷静に対処するのだ。焦ったって命は助からない。いいか、まずは自分自身が深呼吸をしろ。それからやることは、息をさせること。口から息を吹き込め。次は心の臓を動かすんだ。心の臓が動けば、とりあえず安心だ』


 老虎は自分の手の痛みなど、忘れたかのように、必死に処置を繰り返し、彼の胸に耳を当てる。その行為をどのくらい繰り返したのだろうか。かすかに拍動の音がした。


「心の臓が動いたぞ!」


 老虎の気迫に押されているのか、シェイドたちは、動けずにそこにいた。


「次だ!」


『出血しているときは、損傷した部位を心の臓よりも高く持ち上げるんだ。血は水と一緒だ。高く持ち上げれば、出血は止まる』


 老虎はエピタフの腕の下に近くにあった毛布を押し込んでからだよりも高く固定した。


「クソ。腹はどうするんだよ? 先生!」


 老虎は思わず、エピタフの腹部の傷に唇を当てた。傷口に舌を這わせると、本能を刺激するような血の味が口内に広がった。


「おい、老虎! なにしてんだよ」


 周囲にいた仲間たちは素っ頓狂な声を上げるが、老虎は至って真面目だ。


「昔から、怪我すると母さんに舐めてもらった。こうして舐めると傷が治るって聞いたからよ」


「お前バカか? こんな深い傷、治るわけないだろうが」


 シェイドは呆れた顔をした。それから、そばにあった布を傷に押し当てると、体幹を覆うようにぐるりと巻いてきつく縛り上げた。


「とりあえず出血量を減らすことが先決だ。お前、ぎっちり押さえておけ。おれたちは、他のやつらの応急処置をする」


「ちぇ、わかったよ」


 シェイドが立ち去っていく後ろ姿を眺めながら、老虎は口の中に残る血の味に意識を向けた。


 虎族は元々肉食獣の獣人だ。血というものが、彼らの本能に強く働きかけてくる存在であるということを、昔から認識していたはずなのに——。こうして安易に口にするものではないと思った。


 からだの奥底がどきどきとしていて、堪らない気持ちになる。


(もっと味わいてえ)


 老虎はじっとその蒼白な肌に視線を落とした。


(くそ、なんだ。これ……。おれは、こいつを……)


 傷口を押さえている手とは反対の指先で、破れた衣類から覗くその肌をなぞる。自分の大柄でがさつな造りとはわけが違う。虎族は骨格が、がっしりしていて大柄な者が多い。こんなに柔で折れてしまいそうな骨格を持った種族とは正反対だ。


 老虎は目の前に横たわっている兎族の男から、目が離せなかった。


 彼のからだに鼻先を寄せると、いい匂いがした。まるで頭の芯を刺激してくるような匂いだ。なんの混じりけもない、とても甘美な香り。


(他の雄の匂いはしねえ。まだ誰の物にもなってねぇ証拠だ)


 獣族はこの匂いに敏感だ。これは、発情期に交尾を誘発するために発せられる匂いだ。老虎は、自分の内から湧き起こる欲求を抑えるのに必死だった。


 この欲求が、気持ちが——。この匂いや血で惑わされているだけなのか。それとも——この目の前に横たわっている男が、自分の「」であるということなのだろうか。


(おれはあんたが欲しい。あんたをつがいにしてぇ)


 軽く開かれた唇に老虎は再び口付けを落とす。息を吹き返したはずだが、彼の唇は氷のように冷たかった。


「博士、早くアジトに戻ってくれよ! 頼む!」


 老虎の声に、操縦室から顔を出した博士は「わかってるよ! うるさい虎だね」と返してきた。それから、飛空艇は更に速度を上げ、しばらくの後にアジトに着陸した。




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