第8話 神の試練



 飛空艇が猫の町の上空に到着した時、辺りは暗闇に包まれていた。その暗さは異常事態を意味している。まだ少し陽が沈むには早い時間帯のはずなのに、そこだけ切り離されたように見えた。


「始まっていやがる」


 甲板の手すりを支えに身を乗り出す老虎とらは舌打ちをした。初めて見た猫の町は、とても小さな町だった。谷合にある、こじんまりとした美しい町——。大聖堂を中心に、形の整った家々が並んでいる


 老虎の瞳に映るその景色は、まるで地獄絵図だった、本来であれば、天高く伸びているはずの大聖堂の塔は崩れ落ち、跡形もない。


 町のあちらこちらから火の手や黒煙が上がっていた。小さく響いてくる悲鳴の中、大型の黒鳥たちが、住民たちを追い回しもてあそんでいるさまが見えた。


「なんてことだ——」


 言葉を失っている老虎の隣で、スティールは「カースは容赦ない男だ。こうして国を破滅に導くんだ」と、眉間に皺を寄せた。


「こんなの見せられて、それでも黙っていろって言うのかよ。スティール」


 スティールは老虎の腕を掴んで、首を横に振った。


「おれたちの目的は歌姫だ。老虎。何度も言うが、住民たちの救済はしない」


「スティール!」


 老虎は抗議の声を上げた。


(わかってる! わかっているけどよぉ。目の前であんなに傷ついている奴らがいるんだぞ……)


「堪えてくれ。頼む。老虎」


 老虎は自分の苛立ちを振り払うかのように、運転席にいる博士に大きな声をかけた。


「早くしてくれ! 博士。早くその黒猫を捕獲しようぜ! そいつがいなくなれば、カースだって退くんだろう!?」


(助けられねえんだったら、一刻も早く、こんな惨劇は終わらせるんだ!)


 老虎の言葉に同意するかのように、スティールも強く頷いた。彼だって、こんな光景を見てなにも感じないはずがないのだ。革命組のメンバーたちは、みなが一様に辛そうな表情を浮かべている。


 老虎は、みんなが同じ気持ちであるということを理解し、この憤りを心の奥底に押しやることに決めた。


「わかっているよ。ちょっと待ちな」


 博士は「予定通りの場所に着陸できそうだ」と、操縦士に声をかける。飛空艇は町を迂回し、近くにあった森の中の一角——開かれた場所に静かに着陸した。飛空艇が沈黙するのと同時に、スティールは周囲を伺いながら、森の中に入っていく。老虎たちもそれに続いた。


(本当に、その黒猫は逃げてくるのか?)


 リガードという男はどうしているのだろうか。老虎は気が気ではなかった。カースが使役している黒鳥たちはかなりの数だ。空が真っ暗に見える要因の一つが、この黒鳥の存在である。見たこともない生き物たちだった。


 獣族たちは、基本的には人間と同様の姿かたちをしている。違っているのは、その種族の特徴を宿しているくらいの話だ。ここまで原型の形を留めているにも関わらず、それぞれがまるで意思を持っているかのように動き回る鳥を、老虎は見たことがなかった。


 老虎たちはスティールと一緒に、小高い丘の、森の入り口付近の茂みに身を潜めた。


「本当に来るのかよ……」


 老虎は不機嫌そうにそう言いかけると、スティールが「し」と指を立てた。


「ほら。来たぞ」


 暗闇の中、青白い光がぼんやりと浮かび上がった。その光はかなり早い速度でこちらに向かってくる。


「な、なんなんだよ。ありゃ」


 老虎は目を凝らす。その青白い光の正体は、馬だ。馬全体は青白く光り、尾は青白い炎で燃え上がっていた。老虎はスティールを見る。彼はその物体から視線を外さずに「リガードの使役している悪魔、オベロン大公だね」と言った。


「悪魔って……。馬じゃねぇか」


「悪魔たちは、それぞれ独特な容姿をしているという。オベロン大公は馬の形で現れるんだ。過去に一度だけ見たことがある。リガードがオベロン大公を呼び出したところを」


 老虎は目を擦った。悪魔などという存在を目視したことがなかったからだ。


「悪魔だなんて。魔法使いってすげーんだな」


「リガードはエピタフの祖父にあたる。前々魔法大臣だった人だ。高位の魔法使いとなると、悪魔を使役していることが多い。悪魔をこの世に具現化するには、相当な魔力が必要だと言われている。一度に二体も具現化するなんて、リガードしかできない離れ業だ」


(あの兎野郎のじいさんだって?)


 老虎は息を飲んだ。


 エピタフは今回の件を知っているのだろうか? 

 そして、それについてどう思っているのだろうか?


(じいさんが捨て駒にされるって——。あんたは、こんなことになったって、自分の運命を受け入れるっていうのか?)


 オベロン大公は、老虎たちが潜んでいる場所から、随分と離れた場所で、背に乗せていた小柄な少年を地面に下ろすと、しばらくの後に消えた。老虎たちは闇に紛れて、その様子をじっと伺っていた。少年はふらつく足取りで、森を目指しているようだった。


「こっちに来るぞ」


「リガードの屋敷は森の中だ。森の中には、リガードの結界が張られているに違いないよ。リガードは安全地帯にあの子を連れていき、そこで王宮の奴らに引き渡す算段だ」


「一人か。やっぱり、じいさんはいねぇみたいだな」


「カースの足止めをしているに違ない。大丈夫だ。オベロン大公が、具現化できているということは、まだリガードは生きている証拠だよ」


「でも消えたぞ」


「役目を果たしただけだろう」


 老虎は少々安堵した。気休めかも知れない。偽善なのかも知れない。それでも、心からほっとしたのだ。スティールは老虎を見る。両者は頷きあい、森の入り口にたどり着いた少年の元に飛び出した。


「待っていたぞ。黒猫」


 老虎は地面に這いつくばるようにいた少年を見下ろした。彼は見るからにみすぼらしいなりをしていた。


 彼はところどころの服が破れていた。顔は灰で煤け、真っ黒な耳もしっぽもところが白く埃がついていた。痩せていて、蒼白な顔には、黄金色の双眸には、老虎の姿が映っていた。まるで伽藍堂な瞳は、人形の目みたいだった。あまりにも強い衝撃を受けたのだろう。心がここにはないみたいに見えた。


「薄汚ねぇ野良猫だなあ。こんな奴が本当に歌姫なのか?」


 老虎は少年の首根っこを捕まえると、ひょいと抱え上げる。彼は怯えているように首を引っ込めた。指先がぶるぶると震えていて、しっぽがからだに巻きついていた。声も上げられない様子だった。


「汚い言葉を使うんじゃないよ。老虎。歌姫に失礼だろう」


 後ろからスティールの声が響く。


「だてよお」


 老虎は言葉を切った。平凡で、どこにでもいるような少年だった。


(こいつ……)


 老虎はなんだか不憫に思った。自分が歌姫の生まれ変わりだと聞かされて育ったとは思えなかった。


 そう育てられてきたのであれば、今回の襲撃に関しても覚悟が決まっていたはずだ。なのに、目の前にいる黒猫の少年は怯えた目で、ただぶるぶると震えて老虎たちを交互に見ているだけだったのだ。


(神はとてつもない試練を、おれたちに与える——)



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