第6話 その血は固まらない

 あらゆる認識が脳を過剰に刺激していた。

 その光景は激しい頭痛をもたらし、心臓は焼け付くばかりに鼓動していた。

 ――暗いトンネルを照らす明るい炎。

 ――レールの鉄臭さとディーゼル燃料の匂い。

 ――乾き切った土埃に覆われた服の下を濡らす血液。

 ただ、こちらに来る少年を睨むために目を見開くしかなかった。

 そして、その少年の手には注射器が握られていた。


 春取が起こした爆発によってディーゼル機関車からトンネルの壁面に激しく叩きつけられた。幸いと言うにはあまりにも無情だが、白兎の流した血液がべっしゃりと身体を濡らしていたおかげで身体に炎が燃え移らなかった。しかし、小林は難燃素材のジャケットが意味をなさず、炎に巻かれていた。もはや長くは持たないように見えたが、身体が言うことを聞かずにどうしようもなく、眺める他無かった。歯を食いしばりながら自身の無力感をこれでもかと味わっていた。

 少年は倒れた小林を見向きもせずにこっちへ歩いて来る。あの注射器、薬品は確かにあの工場で取ったものだった。脚を動かそうとしたが、右太腿の骨がめしりと擦れる音がした。折れているという感覚が、吐き気を催す痛みから得られた。左の足先もあらぬ方向を向いている。爆発の衝撃は人の骨を容易く砕いていたのだ。

 もはや抵抗する方法は無い。痛みで涙がどれだけ溢れようと、眼球が乾くまで奴を睨むしかなかった。

「その眼だよ」春取が口を開いた。

「強い意志と、怒りを感じる」

 彼はアタシのそばにまで来た。煤や埃で黒くなっていたが、爆発には何のダメージを負っていなかった。役に立たない脚を放り出しているこの姿を見ながら、彼はしゃがみこんだ。

「この注射器が何か分かるかい?」

 ――お前が、工場でよこしたものだ。

 自分の声がかなり小さかった、というより声がはっきりと出せなかった。衝撃で内臓も駄目になっているようだ。

「これはJeLMジェルムと呼ぶ」

 ――ジェルム。

「正確にはイェルムか、イェーラムだったか、そう言う発音になるけどな。まあどうでもいいか」

 ――何故それをアタシに預けた。

「お前がその眼をしているからだ。オレと同じで強い決意を、持てそうに見えたからさ。それにあんな馬鹿な真似をするのはこの島でお前くらいだ」

 ――小林と白兎はお前が殺した。

「こうなったのは全て都雅のせいと思え」

 ――いいや違う。

「……長く都雅の下にいた。そのオレがお前に薬をわざと取らせてやって、騒動のきっかけにさせた。だから全ては都雅のせいさ。この注射器を打てばさらに都雅とその犬――オレを殺したくなる」

 そう言うと彼は指で折れている骨を真ん中から1本ずつ押し込んだ。凄まじい鈍痛に壊れた声帯が悲鳴を上げる。叫ぶたびに血の混じった唾が飛び散った。都雅よりもはるかにこの少年クソガキへの怒りが大きくなる。血液の渇き始めてる身体から、激しく動く心臓がさらに血を溢れさせた。

「……いい感じだ。身体がこれだけ壊れているなら効果覿面だろう」

 ――……!

「その眼で何より気に入ったのは、瞳の色だ」

 そう言うと、彼は注射器のキャップを外した。針というよりパイプやストローという表現が正しいほどの太い注射針が露出した。

 ――やめろ!くそ!

 抵抗しようとするが、胸を押され、トンネルに強く押さえつけられた。呼吸が止まり、心臓が止まるような痛みに襲われる。こいつは肋骨まで砕きやがった。そのまま、ウチの眼をじっくりと舐め回すように眺めた。

「綺麗なオレンジだ。昼の青空でもなく、夜の星空の色でもない。かといえば大地の土や樹木の新緑でもない。その色は何を示している?」

 ――そのめのいぅいろ

 もはや声らしい声は出ず、口の奥から酷く血が溢れた。

 霞む視界の中で、春取もまた、日本人というには似つかわしくない、明るいオレンジの瞳をしていた。炎に照らされていたというわけでは無く、純粋にその色があった。

「適合者の証さ」

 ――ふゔっ。

 どつりと胸が音を立てた。注射針が服を貫通し、皮膚を突き破る。その鉛筆のような太い針は心臓へ深く刺さり、意識をますます混濁させた。血液がどっと、注射器の中に流れ込んで中の鮮緑色の粉と混じり合った。いっぱいになっても血液は止まらなかったが、シリンダーが拡張してそれを受け止めた。女のアタシでも握り込める大きさだったそれは、コーヒー缶ほどにまで膨れ上がり鼓動で脈を打っていた。まるで心臓そのものだ。

「見ろよ、血が固まらない。やっぱり正解だ」

 彼は興奮していた。そして注射器をぐねりと回した。真っ暗になってきた視界に青色のLEDの光が辛うじて見えた。これが適合者と言うことを示すのだろうか?

 そして、注射器は一気に縮小した。鮮緑色の粉の溶けた自分の血液がどっと心臓に押し返される。心臓が止まりかけていたところに血液が流し込まれ全身に駆け巡った。血流の止まって冷えていた血液が全身に流れ、気絶した。


 アタシは荒風の吹く、闇の中に立っていた。しかし、それでも明るく感じた。身の周りには太い針金が雁字搦めに張りめぐされていて身体を固定していた。取り戻しようのないくらいの酷い怪我や鼻の奥にまで血詰まったかのような不快感は無くなっている。ただ、仲間を救えなかった内省の気持ちがふつふつと湧いて心の壁を爪で擦った。

 なにがあったか、分からない。意気を整えなければ。

 様々な状況変化に身も心も追い付いていなかったが、なぜこのような事になったのか――なぜアタシなのかという疑問だけがあった。

 呼吸を深くし、落ち着かせようとした。目を閉じ、瞳をまぶたの上から触れる。わずかに角膜の膨らみが感じ取られた。そのまま眼球を押すと、柔らかく眼孔に沈んだ。

 答えを用意するなら、まぶたの奥にある『オレンジ色の瞳』を持っていたという事である。

 彼もその眼を持っていた。それだけで確信を持ってそのJeLMを打ったのだ。

 そして、どういう薬効があるにせよ、アタシは生きている。そうだ。アタシは生きている。

 白兎は血を失いすぎて死んだ。小林は炎に巻かれて死んだ。マージェスも、スパイクも、ダニエルも、生きているか分からない。

 それなのに、このアタシだけが生きている。

 周りの針金が忽然と蒼く燃え始めた。

 いいか、本来あるべきところに戻ったらする事は3つだ。

 ――都雅コーポレーションを倒す事。

 ――サイボーグ女を倒す事。

 ――春取を探し出し、行動の真相を明かす事。

 単純な話だ。どう動くかはこれから考えれば良い。針金は、髪のように細くなっていた。腕でそれを払い、歩き始めた。蒼い炎は火花となって夜空に輝くように闇から浮かんでいていた。


 物心を付けたのはいつだったろうか。

 あれは不思議なもので、現在の自分から過去を顧みて決めるものだ。その時の自分がどうだったのかも忘れているのに、点で決めようとする。しかし、それは難しい事でもあった。そもそも、昨日の事すら忘れていることばかりなのに大昔の1週間、1ヶ月、1年単位でどうだったのかすら突き止められない。過去の線が破綻している中でどう物心が付いたと決められるのか。

 同じようにアタシの意識がいつ、はっきりとしたかを断定できなかったが。記憶が残るようになったのは、トンネルから遠く離れた自室のあるマンションのそば、路地裏のゴミ箱だった。辺りは未明で暗くなっていたが、何日経過していたのか分からなかった。

 手には酷く腐ったリンゴが握られていた。虫食いのそれをじっと見た後、手のひらを臭い液体が流れたのを見てゴミ袋の山に放った。視界がはっきりしない中、腐臭を引き連れて自室に帰る事となった。

 帰る途中にある建物の窓の反射から、自分の姿を見る。トンネルで戦ったその時の服装だったが、ジェル充填ジャケットや防具は跡形もなくなっていて、下に着ていた黒いシャツと自警団仕様のズボンしか身に付けていない。身体は埃や何かの液体が乾いた跡や爆発の煤があり、そして手のひらの皺や爪の隙間に血がまだ残っていた。

 周りが明るくなった頃には部屋にたどり着いた。玄関の横にある給湯器の蓋を取り外して鍵を取る。玄関を開けて中に入ると奥には見慣れた、そして急いで出たために散らかっていたいつもの部屋があった。とにかく不衛生な状態から解放されるために、服を玄関に脱ぎ散らしてシャワー室に入って蛇口を捻った。

 まだ冷たいままのシャワーを頭から被る。箒のように跳ねていたブロンドの髪はしばらく水を弾いていたが、少しずつ頭皮に冷たい感触が広がった。そのまま、しばらく後頭部から水を受け続けた。髪から、水が頬を伝って下に落ちる。

 顔を上げて、鏡に映る自分の姿をじっくりと見た。

 ――まるで麻薬中毒者だ。

 眼の周りはクマだらけで、皺もいつも以上に深くなっている。毛穴という毛穴には砂や煤がびっしりと詰まっていてる。そして、顔には酷く血がこびりついていた。自身に一体何があったのか全く理解ができなかったが、この現状を受け入れるしかなかった。身体中の汗や埃、血液が水に溶けて、白いシャワー室に赤黒い灰色の水が排水溝に飲まれていった。


 †


 ウチの部下が全員死んだ。トンネルでようやく追い付き、脱線した貨物列車の衝突から助け出そうというのに、部下は指信号で逃げろと伝えたのだ。そこで見たのは確かに、春取だった。SUVに取り付いて、部下を何か刀のようなもので叩き斬っていたのだ。ジェット走行時に、陽動だった車列を止めた上司のキング・Dから連絡が入っていた。その様子を見た彼もすぐに撤退するよう命令する。薬品を取り返そうとしたのにみすみす見逃すように言われたウチは反対した。しかし、この脚が誰かに操作される違和感を覚え、引き返さざるを得なかった。

 その上司の判断は適切だったようで、引き返してトンネルを出た頃に大爆発が起きた。マージェスを捕らえた仲間がその後調査に入り、部下全員と2人の自警団員の荒らされた遺体が残されていた。

 しかし、春取と自警団員の女は見つからなかった。現場にあったのは、使用済みの注射器。その注射器からは薬品の混ざったJeLMが検出された。そう、適合者でなければ溶けることの無いそれが、水にインクを垂らすように溶け込んでいたのだ。

 都雅の上層部は事態を次の段階に進めた。ほとんどの人に効果のない、解析の難しい薬品を持ち出される以上に恐ろしい事だ。5億人に1人もいない適合者がこの島に2人いて、そしてその適合者がJeLMを接種した。納得できる理由を取り繕っていた上層部はもはや気にせず、強力な尋問を捕らえた自警団員に行った。

 そうして得られたのが、ブロンドの髪を持つ女自警団員の名前、アルヴィナ・フィルシアンドだった。

 

 トンネルが封鎖されてから3日、ウチはアルヴィナの住むマンション近くのビルから見下ろしていた。あの電車で戦いがはじまった時と同じ、涼しい朝だった。

 機械の脚の装甲に何度も爪を滑らせつつ、タンブラーから立ち昇るコーヒーの湯気越しに部屋の明かりを眺める。アルヴィナは3日目の未明に姿を現した。そして、見当通り自分の住む部屋に戻った。帰るつもりのなかったであろう部屋で女は呑気にシャワーを浴びている。食べかけのサンドウィッチを拾い上げて、チーズだけを引き摺り出して飲み込む。

春取壮國はるとりそうごくは1週間で完成した。あの女をこちらの管理下に置くには今しかない」

 別の場所で張り込みをしていたキング・Dが到着した。成人男性の太ももよりも太い、大きな機械の腕でテキパキと準備をしている。50口径のマシンガン、ピストル弾をばら撒くショットガン、極め付けはハンドガン。グレネードランチャーを改造した50だった。

「ここで捕まえないと、私たち全滅ですね」

 立ち上がって、脚部装甲を1枚ずつ展開し、細かいところまで磨かれた武器や装備を眺める。それらは、きらりと朝日を反射させた。街中での戦闘が予想されるから、腰にハンドガンを取り付けていた。とはいえ、この.45口径が役に立つとは思えなくなってきた。

「シャワーが終わる前に仕掛ける。俺が撃ったら3秒後に飛べ、穴を用意してやる。それと連絡は常にオープンにしておけ、ツーマンセルで仕留めるぞ」

「ブリーフィング通り、ですね」

「そうだ」

 キング・Dが選んだ獲物は対戦車ランチャーだった。サイトでさっと狙うなり、爆音と共に弾頭が飛び出す。炸薬を減らしていたとはいえ、マンションの最上階に入るための穴が容易に開いた。

 アルヴィナがJeLMを摂取したとはいえ、まだ効果は中途半端にしか出ていないはずだ。戦闘用サイボーグはこの島に2人しかいない。その2人がここにいるのだ。アルヴィナもマージェスのようにじっくりと可愛がってやろう。

 明け方の空にへ、飛び込んだ。

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