15_DoT:8 『追想』
『——べつに。……ちょっとぶつかっただけだもの』
進路を逸れたサッカーボールと、赤く腫れた頬。
痛々しいその怪我とは対照的に、特に表情を歪めることもなく目の前に佇む少女。
——“あのっ! だいじょうぶっ!?”
口にした問いに対して、返ってきたのは予想していたのと随分違う答え。
それに対して、驚くあまりに目を見開いて——璃子は、思わず抱えていた本を取り落としてしまった。
『でもでも……っ、ほっぺた、あかくなって……』
『……いたくない。それよりも、気をつけた方がいいのはそっちの方じゃない? ずっと本なんて読んでたらボールにも気づかないでしょ?』
こちらに向けられたのは、濁ったような目。
長い前髪も祟ってか、目の前の少女は、随分と暗い雰囲気を纏っていた。
——こんな子、見たことなんて……。
自身の怪我には無関心、こちらと話す態度も気怠げ。同い年くらいの相手に見たことのない、どこか冷めた態度。
声をかけ難い相手——そんな印象を持たせる少女だった。
けれど、頬の腫れは見ている分には十分痛々しいもので。それも、自分のせいだとしたら、尚更。
——で、でもでも……っ、やっぱりいたそう……。
恐々としていたせいか、発した声は案外震えていたけれど。
揺れる視線を何とか目の前の女の子に向けて、璃子は一つ、提案をした。
『うっ……ごめんなさい。それは気をつけるけど——けが、ほんとにいたくないの?』
『……ホントにホント。いたく、なんか……っ』
『ううん、たすけてくれたお礼で、わたし、にも……なにかさせてほしいの。おうち、このあたりで……。てあて、するから……っ』
そんな提案に対して少女は何度か瞳を瞬かせたのちに、頷くでもなく、ただ俯いて。
少しばかり考え込むように、視線を揺らす。
しかし、口ではそう言っていても結局は痛みが勝ったせいか、袖で小さく目尻を拭うと再び璃子の方に向き直り、彼女は口を開いた。
『……そこまで、言うなら……』
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
『……ごめんね? きょう、おかあさんいないから、それくらいしかできなくて……』
『ん、べつに。これくらいで十分。ありがと』
今しがた貼ってもらったばかりのガーゼをひとしきり撫ぜ、少女は短くそう口にする。
『まだ、いたい?』
『さっきよりはマシ、かも』
『……その……ごめんね。わたしのせいで——そんな……』
『……どうせ、すぐなおるもの。それに、あたしがぶつかっただけだから』
実際、痛みは大分引いてきたのか、彼女の興味の対象は既に移り変わっていたようだった。
きょろきょろと辺りを見回し、興味深げに次から次へと視線を巡らせ——それは、本棚に触れたのを最後に止まった。
『——本、すきなの?』
先程までとはまるで違う口振りで。
弾んでいる——とまではいかないけれど、気怠さは感じさせなかった。
『う、うん。すき——だいすき、だよ。いちばんすきなのはね、これ……なんだけど』
思わず差し出した本は、公園で読んでいたもの。
大判の表紙一杯に描かれた絵も、少しビターではあったけれど、その結末も。文字通り、隅から隅まで璃子が気に入っていたものだった。
『へぇ……きれいな絵、だね』
ぺたん、と床に座り込み。
差し出されるがままに本を受け取ると、少女はページを捲り出す。
本を読んでいる間、特に彼女は何かを口にするでもなく、璃子も後ろから覗き込むだけ。
ぱら、ぱらとページを捲る音と、二人の吐息、それとカーテンが擦れる音しか聞こえない中で、気づいた頃にはもう日が傾いていた。
少女が本を閉じたのは、手当てを受けるだけにしては、随分と長い時間が経ってからのこと。
『あたし、あんまり本読んだことないから、ぜんぶわかったわけじゃないけど——』
少女が顔を上げた時、瞳と瞳はかち合った。
先程まで影が差していたそれは、カーテンの隙間から差し込んだ斜陽によって、橙色に色づいていて。
光の加減か、頬は紅潮しているように見えた。
『——こういうの、すき……なのかも』
まだ会ったばかりで、少女と過ごした時間も長くない。
半ば申し訳なさが勝って家に連れてきただけだし、手当てが終わればもう、そこで終わる関係のはずだった。
『ほんと……っ!? あなたがすきなのはどの辺り? わたしは、騎士さまがオオカミをやっつけて、助けてくれるところなんだけど……』
『そう、なんだ。あたしは——二人が指輪を交換したところ……とか、かも』
『あっ! そこ、わたしもすきっ!』
——おわかれ、したくない。
けれど、少女と言葉を交わしていて、璃子の中で、不意に芽生えたのはそんな感情。
助けてもらったから? それとも、自分の好きな本を彼女も好きだと口にしてくれたから?
きっかけは、一つに絞れない。はっきりとしたものなんかじゃない。
それでも、胸の中で沸き立つその感情は、抑えられるものではなくて。
——また、会いたい。
とにかく、つぎが欲しくてたまらなかった。
だから、会話の弾んできたこの機を逃すわけにはいかなくて。
鳴り止まない心臓を抑え、詰まる言葉を無理くり吐き出すように必死に。璃子は、言葉を継いだ。
『——ねぇ、もし……あなたがよかったら、また、うちにこない? おすすめの本とか……もっと、かしてあげられるし……っ! どう、かな……?』
若干、視界は滲んでいた。手も震えていた。相変わらず、止まぬ鼓動はうるさい。
初めてだった。
ここまで、一緒にいたいと思った相手も、それを口にしたのも。
目の前で、何度か瞳はちら、ちらと、揺れる。
けれど、最後に璃子を捉えると、少女は口を開いた。
『——りょーかい』
『……りょー、かい……? それって、どういういみなの……?』
『わかったってこと。おとうさんの口ぐせだったの。こわいかおするから、おかあさんの前じゃなかなか言えないけど』
未だ、璃子にはわからない言葉だったけれど、その直後に彼女が口にしたことから、意味は読み取れて。
安堵感からか一息吐いたのち、璃子は思わず顔を綻ばす。
『……どうしたの? そんなにうれしそうにして』
『“りょーかい“してくれたからっ! あなたのおかげっ!』
『あ、あたしのおかげ……!?』
『うんっ! えーっと……そういえば、あなたのおなまえ……』
璃子とは対照的なしかめっ面。
けれど、意外と満更でもない口ぶりだった。
『——かんの ゆりな。そっちは?』
『わたしは、りこ——しらほ りこっ!』
そんな様子に、思わず璃子は笑みを零して。
自分の名前を相手に覚えてもらうため、元気よくはっきりと口にしたのち、もう一度、少女——友梨奈の瞳を見据えた。
『——これからよろしくね、友梨奈ちゃんっ!』
——“結わえて“
——“ピコン”
「今の、は……?」
無理矢理掘りおこされたような記憶、不意に響いた声、ノイズを止ませた、無機質なSE。
まるで、夢を見ているようで。それでも、あまりにも鮮明すぎる光景で。
そんな奇妙な時間を過ごした反動……でしょうか。ズキズキと頭は痛みます。
——わたしは、今、何を……していたんでしたっけ……?
不意によぎったのは、そんな疑問。
身体は横になっているようです。
そして、背中に感じる感触はまるで芝生の上で寝転んでいるかのように柔らかいものです。
けれど、全身に軽い痺れが残っていて——
「——っ」
目を開いた途端、飛び込んできたのは、空に近い二本のバー。
そして、こちらに飛びかかろうとしているオオカミ——【lupus】とわたしとの間に挟まった友梨奈ちゃん。
直後に彼女が握りしめていた《レイピア・ド・バロネス》は、ポリゴン片となって飛散し、身体は遠くへと投げ出されます。
それは、状況を理解するには十分すぎる一瞬で——あの時と、変わりないものでした。
わたしが危険な目に合って、友梨奈ちゃんが庇ってくれて。
寧ろ、ずっと——ずっと、その関係性だけは揺れなくて。
……引け目は、感じていました。
わたしからは、何もお返しができていないって知ってました。
だからこそ、せめても——と、今すぐにでも駆け寄りたくて。足は微かに震えます。
——でも、それでも。
それでは、何も解決しません。
目の前の【lupus】は、体勢を整え次第、すぐに攻撃に転じようとするはず。《ヴェントブラスト》で回避しようにも、きっとすぐに限界は訪れます。
そして、わたしが倒された場合、次に標的になるのは友梨奈ちゃんです。
力が込められた前脚は、既に跳躍に移ろうとしているというサイン。
残っている【lupus】のHPは3割ほど。高火力魔法をクリティカルで撃ち込まなければ、倒せないライン——分が悪いことに違いはない——というよりも、それはほぼ博打に近いもので。
……けれど、ここを退くわけには行きません。
友梨奈ちゃんは、ずっとわたしに付き合ってくれました。
一緒にクエストやダンジョンを攻略したり、レアな宝箱を見つけたり、初めてDoTに出られたり。
昔も、今も。楽しい時間は、いつも友梨奈ちゃんがくれたものでした。
だからこそ、わたしは、自身ができる“精一杯“を為さねばならないのです——今、ここで——
「——絶対に、友梨奈ちゃんを——守ってみせるから——っ!」
——“ピコン”
引き絞られた紅い瞳がわたしを捉え、【lupus】が跳躍した瞬間でした。
もう一度SEが響くと同時に、HPバーの隣に見たことのないアイコンが現れて。
跳躍した【lupus】の身体に、魔法のターゲットとは別の、青いサークル——クリティカルサークルが、表示されました。
何故、わたしにクリティカルサークルが見えているのかも、このアイコンの意味も、わかりません。
……でも、既に色々と歪なのです。例え、どんなに歪な現象だろうと、この場を切り抜けられる可能性を上げてくれるのなら——
「——《テラ》」
——今は、構いません。
表示箇所は数個、眉間や腹、鼻先など——どれもありがちな部位です。弱点を外せば、わたしが倒されます。
——“始まりは、国と国との間の花畑。妖精を襲った狼の心臓を、人が貫いた時から”
『わたしは、きしさまがオオカミをやっつけて、助けてくれるところなんだけど……』
けれど、ただ一つの確証がターゲットサークルを、胸——心臓に合わせました。
そして、そんなわたしの確証を裏付けるかのようにターゲットサークルの内側で、クリティカルサークルは応えてくれるかのように、何度も点滅を繰り返します。
「——《ブレイズ》」
それが最後の後押し、だったのでしょう。
起句に応じてわたしの持てる全ての
「——《バレット》——っ!!」
ただ一度、引き金は引かれました。
煌々と蒼く輝く弾丸は、ターゲットサークルと寸分違わぬ位置へ放たれます。
放たれた雷撃くらいでは、決して焼かれることもなく、【lupus】の装甲にまで達して。
硬い装甲を貫き、飛び散った青い火花——遂に、本体にまで達したようでした。
HPは一気に減少し、黄色から、赤へ。
やがて、三桁から、二桁へ。
そのまま勢いは止まず、一桁へと——バーは、僅か数ミリほどまで減少し——
「ウォォォォォォォォォン!!」
——そこで、減少を止めました。
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