僕が発狂した100の理由

今迫直弥

一 華蝕の夕凪

 春は西の方からやってくるのだと彼女は言った。万人がタバコに溺れるこの国で、最後の嫌煙家である僕と彼女は、いつものようにボンベを背負い、夕暮れの遊歩道を歩いた。流れる歩道を逆走するオートマのフライトボードを横目に眺める。ピアスや刺青の目立つ搭乗者だったら身を守る。彼女を庇う。それがこの国で生き残るために必要なこと。幸運にも搭乗者は少女だった。二人乗りは規則違反のはずだが、短いスカートのため警邏の人間から見逃されている。

 青い炎に似た、特別輝かしくもない不機嫌な太陽が真正面に見える。電線に止まる烏が砕けて弾け飛んだ。撃ち落とした小学生が歓声を上げながら三匹の狗を向かわせる。それが今日の宿題なのだろう、ランドセルの中から特製の機器を取り出して状況を打ち込んでいる。タバコを片手にメモを取る女の子も一緒にいた。

「どうして烏は、あんな風に落ちてしまうのかしら。撃たれても落ちなければ、食べられることもないのに」

 彼女はひどく尤もなことを口に出した。だが、詮無いことだ。散弾で撃たれれば、落ちる。良し悪しに関わらず。それが道理なのだ。

「きっと、あの烏は、明日を信じていたんだわ。それなのに可哀相」

 タバコの煙が近付いた。マスクを着けた。中毒性のあるらしいボンベの気体を吸い込んで、煙をやり過ごす。彼女は息を止めていた。小学生たちが不思議そうにこちらを見ていた。タバコを吸っている女の子が、にやにやと笑いながらこちらに向かって息を吐き出した。僕はポケットに入っていた硬貨をその子に投げつけて黙らせた。

「あの狗、可愛いわね」

 たった今まで烏に同情していた彼女が、烏の屍肉を貪る三匹の狗に対してそんなことを言うのは意外だった。口元にべったりと付着した血や、骨に必死で噛り付いている長い牙を見た。僕には可愛いとは到底思えない。どの狗も尻尾が一本しかなくて、珍しかった。

「昔、私の飼っていた狗も、あんな風に笑ったもの」

 狗が笑っているかどうか、僕にはわからない。彼女がそう言うのだから笑っているのだろう。ボンベの中の気体は、頭の芯に響く甘さがあった。春の匂いだ、と彼女は言う。これも僕にはわからない。

「春は西の方から来るの。きっと、すごく大きな乗り物に乗って」

 また、彼女が言った。僕は駄目になりそうだった。さっきの女の子が後ろで叫んでいた。僕の投げた硬貨は贋物で、中にはその何倍も価値のある貴金属が隠してある。今更どうでもよいことだった。女の子は、これでタバコをもっと買える、と笑いながら叫んだ。

 僕は振り向いた。拳銃を握った。相変わらず引き金は重く、指を痺れさせた。銃声は、いつも乾いている。

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