第3話

「・・・・・・飼い犬」

彼が犬を飼っていることがまず意外だった。私はしばらくぼうっと立っていたが、うちへ帰ることにした。小屋の中からは甘えるような犬の鳴き声が漏れ聞こえて、ジェンさんが犬を甘やかしていると想像すると微笑ましい。私はニヤニヤしながら小屋を離れた。一応お使いの帰り道である。

 私の家は野っ原にある。一軒家で、そばにはコテージもある。芝を踏みしめながらドアに近づいて、母さんが洗濯物を干しているのに気がついた。

「母さーん、買ってきたよー」

母さんは、風になびくシーツに苦戦していた。

「手伝う?」

「いやヘーキ。風呂沸かしといてくれる? それは私の部屋の前に」

母さんは身長があるのに対し、私はまさしくチビで、助けにはならないのだ。私はドアを開けて、荷物を下ろし、バスルームに向かった。うちはお風呂に入ってからご飯を食べている。父さんの帰りを待ってから食事にするからだ。父さんは定時退勤を信条にして働いているらしい。風呂を沸かすのに、ガスのスイッチを入れる。生活様式は、私の知っている限りでは、日本とほぼ同じだ。魔法で沸かすこともできるようだけど、出力が大きく疲れてしまうと聞いた。うちではライフラインに魔法を使わない。もしそれが、私に気を遣ってのことなら、なんだか虚しい。

 お風呂を終えて、父さんの帰りを待つ。私はその間に、専門学校の課題を終わらせようとしていた。私の通う学校は、一年次は普通の、いわゆる勉強をする。コース選択は二年になってからだ。国語が一番苦手で、次に倫理。母さんは勉強嫌いだし、父さんは忙しくて助けてもらえない。私はいつも、部屋でひとり唸りながらプリントの穴埋めをしている。今日はふと、ジェンさんのことを思い出した。薬売りなら勉強はそれなりにするはずだ。次行くときは、課題を持っていって、教えを請いてみることにした。しばらく天井を見つめてぼうっとしていると、空気がもれだすような、勢いのあるドアの音が聞こえた。父さんが今日も無事、定時で帰宅した。

 「おかーり」

「今日も定時だ」

父さんはただいまの代わりにそう言った。役人のくせに固いところはない。むしろところてんみたいに、捉えどころがない。私たちはそれぞれの世界からぞろぞろ出てきて、母さんは作り置きのおかずを引っ張り出してくる。ダイニングテーブルは四角形で、私がひとりで一辺を独占する形になる。

 私たちは食事の挨拶をして、それから私が話し出した。

「今日、薬売りに会ったの」

「ふーん」

二人ともあまり興味をしめしてはくれなかった。私は野菜炒めをご飯に載せながら、少し不満に思う。これは私の人生のターニングポイントになるかもしれない案件なのに。

「その人、魔力増幅の薬を持ってて。私が魔法を使えるようにしてくれるって」

「えーっ、ちょっと怪しくないかな」

母さんが身を乗り出した。スープの表面がかすかに波立つ。父さんも手を止めた。私は後悔半分、焦り半分で、茶碗をテーブルに置いた。

「ジェンラグレッドって人。父さんのこと知ってるみたいだし、悪い人じゃないよ、平気」

私の弁明にも、母さんは眉をひそめたままだった。ただ、父さんが目を丸くした。父さんはおもむろに立ち上がり、パソコンを部屋から持ってきた。キーを叩きながら私に聞いてくる。

「その人、目の色は」

「超青」

父さんの表情が柔らかくなる。母さんは茶碗を持ったまま、パソコンを覗き込む。そして、腑に落ちたように、あー思い出したわ、と叫んだ。私だけ会話についていけていない。

「何、何。勝手に納得しないでよ」

私が立ち上がって抗議すると、母さんが口を開いた。

「赤目のミサキ、碧眼のラグレッド」

今度は私が、目を丸くする番だった。それは一種の熟語のように滑らかな響きで、母さんが言い淀むこともない。私は一度も聞いたことのない言葉だった。昔流行った言葉だろうか。もちろん、ラグレッドがジェンさんを意味するのは分かる。しかし、赤目のミサキ、という言葉は意味不明だ。ミサキ? 人の名前だろうか。

「説明欲しい」

父さんがパソコンを閉じて言った。

「この群島政府が公式に認めている、医師の家系のことだ。ミサキ家とラグレッド家、まあ正確にいうとね、二代しか続いていないんだけど。しかも、政府公認とは言ってもそこまで繋がりが深いわけじゃないし」

父さんがペラペラ喋るので、私は早々に追いつけなくなった。困惑の表情に気がついてくれたのか、母さんが父さんに茶碗を持たせる。

「ご飯の後で、噛み砕いて説明してよ」

それから、ご飯だけにっ、と母さんはニヤニヤした。

 カウンターの向こうで母さんが洗い物をしている。その隣で皿を拭きながら、父さんが話し始めた。

「つまりね、昔、政府お抱えの医者が二人いたんだ。ラグレッドとミサキ。ラグレッドが青い目をしていたから、それと対照で赤目のミサキと呼ばれるようになったんだけど。昔は医者もほとんどいなかったし、政府お抱えにして、保護する側面もあったんじゃないかな。その二人の子供も医師になって、家としてお抱えになったんだ。それで、あの決まり文句が生まれた」

「私、それ聞いたことないけど」

私の疑問に答えたのは母さんだった。

「その二代目がさ、政府の認定はそのままにして、お抱えを辞めたのよ。そっちの方が自由だし、昔は政府の黒い仕事に巻き込まれることもあったみたいだしね。それで、決まり文句も忘れられたのかも」

「私が会ったのは、二十歳くらいだったよ」

「あ、三代目じゃない? いたんだ」

「政府公認のもと悪いことはできないし、怪しくはないな」

父さんはそう呟いた。

 なぜ、その二つの家が、今は有名じゃないのか聞いた。それは、圧倒的にラグレッドより強かったミサキ家が、なぜか途絶えてしまったからだという。

 想像よりもあっさりと、両親からジェンさんへの不信感は取り除かれた。私はベッドに入り、モノの数分で眠りについた。明日もまた、ジェンさんの小屋へ行く。

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