第8話 ハッピーエンドが好きなんだ
ルル・シャンテ。無垢な少女はいつしか、上品なレディへと成長する。
「彼女の名声は海中に広がりました。この街は音楽の都として栄え、海中からあのステージを目指す若者が集まったのです」
広場では路上ミュージシャンが思い思いの楽器を奏で、往来の人々が自然と体を揺らす。音楽が溢れる街は想像するだけで楽しそうだ。
「あの男が現れたのは、そんなルルの人気が絶頂の時でした」
「あの男?」
「音楽プロデューサーと名乗っていました」
マスターは空になった自分のグラスに、震える手でウィスキーをそそいだ。琥珀色の液体がグラスの縁からこぼれ落ちる。
「男はルルに、地上でも歌ってみないかと持ちかけてきたんです。目の飛び出るような大金を積んでね」
アサがチョコレートを食べ終えて、またぞろ貝殻を転がし始める。
「ああ、思えば私たちも初めは乗り気だった。むしろルルの方が消極的だったのに」
自嘲。
「だけどルルの意向がバンドの方針です。答えを先延ばしにしているうちに、だんだん勧誘も強引になってきて、いよいよ怪しいと思ったんです」
だからバンドメンバーも、ルルの意見に従うことにした。
「大きなイベントがあって、男も見にきていました。演奏のあとで断りの返事を入れるために、ルルは男に声をかけたんです。ほんの短い間でした」
そしてその晩、異変は起きる。
「静かな夜だった。祭りの後の静けさ。バンドが即興で演奏し、彼女がそれに合わせて歌う。楽しい時間だった」
演奏の切れ間に、ルルがおもむろに立ち上がっという。
「彼女は楽屋に髪飾りを忘れたと言って出ていった」
おれはマティーニで口を湿らせる。おそらくこれから待ち受けるであろう、悲しい誤解に備えるために。
「それきりルルは戻らなかった」
マスターは諦めたように首を振った。
「彼女は海を捨てて、地上を目指したんです」
残されたバンドメンバーは、どんな気持ちだったんだろうか。彼女の歌を生きがいにしていた人々は。
「なんの別れの言葉もありませんでしたよ」
予定していた公演は全てキャンセル。
考えようによっては、ルルは大金に目が眩んで故郷を捨てたことになる。それ以来この街では、ルルの名は禁句になった。
「それなのに、それから誰のなにを聞いても満たされないんです。ルルがいれば別だったんでしょうか。喪失を超えるスパイスはありませんから」
いや、それでも彼女を超える存在は出てこないか。そんな風にひとり呟いたあと、マスターは話を続けた。
「私だけじゃありません。ルルに焦がれて集まった人々は、ひとり、またひとりと去っていきました」
「音楽の都に黄金の波を運んだ歌姫は姿を消し、街から音も消えてしまった」
おれの言葉に、マスターは今度は縦に首を振った。
「ええ。街もご覧のありさまです。不思議なものでね、この街の周辺の珊瑚。ミュージックリーフというんですが。アレまで輝きを失ってしまった」
「ルルを恨んでいますか」
「わかりません」
マスターは笑った。それは悲しい笑顔だった。
「願わくば、地上に彼女の歌が溢れていますように。そう願う朝もあれば、別れも告げずに地上を選んだあの
愛情に裏切りが加わると、時には憎悪に変わる。少なくとも目の前の男に残ったのは、消えた女と男という事実だけだ。その時の苦しみは、本人にしかわからない。
「ただあの時から、私もこの街も死んでいるようなものです」
つまらない話をしてしまいました。そう言って、マスターはグラスを煽った。
本当に、つまらない話だ。
おれはアサの手から貝殻の髪飾りをとりあげる。ふくれっ面を無視して、マスターの前に差し出す。
シド・ヴィシャスは21歳で。カート・コバーンも27歳で死んでしまった。ついでに櫂森海は7歳の夏。偉大なミュージシャンは早世が多い。
だけどルル・シャンテは死んでいない。
おれはハッピーエンドが好きなんだ。
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