第7話 歌姫

 グラスの中でオリーブが踊る。


「あなた方もルルのファンでしょう? 風変わりなお客様はみんなそうですから」


 マスターはアサの前にチョコレートを置いて言った。


 話なんててんで聞いちゃいないアサを気遣ったのだろう。退屈したのか、ルルさんから預かった貝殻の髪飾りを掌の中で遊ばせている。


 倒れていた時から身につけていたもので、彼女の身の証を立てるために、借りてきたものだ。


「どうやってお知りになられたのか。蓄音機もない海の底の歌声に惹かれて、時折訪ねていただけるんです。それでもずいぶん久しぶりですが」


 アサの機嫌はチョコレートのおかげで急上昇。


「実は私、彼女のバックバンドをやっていたんです」


 ついでにおれの心拍数も急上昇だ。やはりここはルル・シャンテの生まれ故郷。あとは歌姫とおれの知っているルルさんが同一人物かどうかだけだ。


「私も一杯いただいていいですか」


 おれは黙って頷く。それより話の続きが気になって仕方がない。




 それから、マスターは低い落ち着いた声でルルとの馴れ初めを語ってくれた。




「私が彼女と出会ったのは、まだ音楽と騒音の違いもわからないような若造の時分でしてね」


 それでも、それなりに人気はあったんです。そう言って、マスターは照れ臭そうにグラスを傾けた。


「海で音楽をやりたがる若者はみんな、あのアコヤガイのステージに憧れていました」


 あそこで歌うことは一流の証だったらしい。けれど夢の形骸は、今では墓標のように波間に佇んでいる。


「あと一息が出ないのが、5、6年続きましてね。そんな時ですよ、ルル・シャンテが彗星の如くこの海に現れたのは」


 青い髪の、まだ年若いマーメイド。


「小さなライブハウスでね。初めて同じステージに立った時は、潮時だと思いました。自分よりいくつも下の無邪気な子供に、圧倒されたんですから」


 圧倒された。本物に舞台は関係ない。たとえ大海原の荒野でも、彼女が歌えば客は集まる。本気でそう思ったという。


 実際、すでに出演が決まっていたライブを終えたら彼は音楽の道を捨てるつもりだったという。


「だけど私が最後の演奏を終えて、ギターケースを楽屋に置き去りにして立ち去ろうとした時です」


 ルルとすれ違ったそうだ。彼女はマスターの手元を覗き込んで微笑んだ。「あら、私は大好きよ。アナタの奏でる音楽が」と。それは彼の生き方を変える一つの分岐点。


「そんな時のルルは、年齢を忘れさせるほど美しく、妖艶ですらあった」


 遠い目をしているマスターの思い描いた人物は、おそらくおれのよく知る人で間違いない。


「だから私は、彼女の後ろで奏でる人生を選んだ。それからは最高の日々でした」


 マスターの語り口にも熱が入る。


「誇張ではなく、街中の人間が彼女の歌のために生きていました。コンサートの日には全ての店が閉まってね、ここらの海中から人魚だけじゃなく、色々な生き物が押し寄せてきた」


 それはもう、魔法だ。種族の垣根を超えて届く歌声。


「あのアコヤガイのステージの周りを、多種多様な生物が埋め尽くすんです。サメと小魚が肩をくっつけてルルの歌を待っているんですよ。信じられます?」


 OKマスター。それじゃあその歌姫を、今度はアンタが救ってくれないか。ちょいと人魚に戻れる歌を教えてくれるだけでいい。そうすれば、この街に歌姫が舞い戻る。おれがそんな軽口を叩こうとした時だった。


「だけどルルは私たちを裏切った」


 マスターの手にしたグラスの氷が、カランと乾いた音をたてた。











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