第6話 海の底で一杯のマティーニを

 おれたちは街の近くで車を降りた。


 海の中じゃあ、車は新種の魚にしても異様だ。嬉しいサプライズ以外で、人をむやみに驚かせるのは趣味じゃない。


「音楽の都というには、静かだな」


 だけど街に入ってもほとんど人影はなかった。まばらに人魚の姿を見かけるが、どの顔にも活気がない。


 なにより異様なのは、音が少しもないことだ。行き交う人々に会話はないし、生き物の動く音もしない。


「カイ、あそこ」


 アサが指差したのは酒場らしき店だった。少しだけ漏れている灯りを頼りに、寂れた酒場に入る。


「いらっしゃいませ」


 バーテンが、バリトンのきいた声で出迎える。


「ここらの酒には詳しくないんです、おすすめを頂けますか。アサはどうする?」


「ミルク」


 バーテンはおれのヒレのついていない足に目をとめて、それからカウンターのスツールによじのぼるアサを一度だけ見た。


 表情を変えなかったのは、大したプロ根性だと思う。アサが酒を頼んでいたら、どうしていただろうか。きっとおれのことを叱っていただろう。


 背を向けて並んだ酒瓶に手を伸ばしたバーテンを眺めながら、ぼんやりとそんな考えがよぎる。それでなんとなく、おれはこのバーテンに好感を持った。


「どうぞ」


 目の前に置かれた酒に口をつけて、思わずグラスを持ったまま固まってしまう。微かなレモンピールの香りのあとから、わずかな苦味が舌の上で滑る。うまい。


「海にしか実をつけぬ果実。ウォーターレモンを使ったマティーニです」


 そう言ったきり、バーテンは棚の酒瓶を拭く作業に戻る。

 腕はたしか。無闇におしゃべりじゃないのもおれ好み。


 おれは店の片隅に置かれた楽器が目に入って、マスターに声を掛ける。


「マスターが弾かれるんですか」


 初めて、マスターの顔に表情が浮かんだ。それは恥とも誇りともとれる複雑な色合いだ。埃を被ったギターは、どこか寂しげに見える。


「昔かじった程度です。いつまでも捨てられないものって、みっともないですよね」


「いえ、素敵です。おれは生まれ変わるなら、顔がいいより背が高いより、歌がうまくなりたい」


 まだ子供の頃、ご機嫌に鼻歌混じりで歌っていると、友達の女の子にバケモノを見たような顔をされたことがある。


 「それってわざと外してるんじゃないの?」なんて死刑宣告。その瞬間、ミュージシャン櫂森海は若くして死んだ。ちょっとひどいよな。


「いやいや、私は楽器が専門でね。それこそ歌うのはやめました。海が干上がっても敵わないひとに出会ってしまったから」


「歌姫の名は?」


おれの質問に、マスターが振り返る。その顔には、今度こそ混じり気のない誇りが輝いている。


「ルル・シャンテ。音楽の都に黄金の波をつくった、2度と現れぬ天才です」











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