第9話 一曲歌ってくれないか

 目の前に差し出された髪飾りに、マスターは怪訝そうに眉を顰めた。


 大きめの巻き貝をあしらった、珊瑚や真珠の装飾品。


「これがなにか?」


「これはある人からの預かり物なんです。手にとって頂けませんか」


 マスターは目の前の髪飾りを見つめたあとで、目を見開いた。


「まさか。いやしかしこれはルルの」


「ルルさんは街を捨てていません」


 マスターはまるで毒でも触るかのように、震える手で髪飾りを押しやる。


「仮にこれがルルのものだとしても、それがなんだと言うんです。彼女は街を捨てた、その事実は変わらない」


「彼女はその晩、戻らなかったんじゃない。戻れなかったんです」


 それでも話を続けるおれに、マスターはとうとう声を張り上げた。だけどそれでも、おれには彼女の想いを伝える義務がある。


 だって真実が見えているのは、陸も海も行き来したのもおれとアサだけなんだから。


「やめてくれ! 私は見たんだ、彼女が男に肩を抱かれて海面を目指すのを。私は叫んだ、『ルル・シャンテ、海は君を必要としている』と。彼女は振り向きもしなかった!」


「ルル・シャンテがおかで見つかったとき、彼女はひどい怪我を負っていました。目が見えなくなるほどの、大怪我です」


 マスターは凍りついたように動きを止める。


「おまけに記憶すらも」


 ルルは激しく抵抗したのかもしれない。痛めつけられ、意識を失った彼女にマスターの叫びは届かなかった。


 陸に上がってから、最終的にどんなやりとりがあったのかは分からない。自称音楽プロデューサーは血を流すルルを見て怖くなって逃げたのか、人の気配を察してその場を離れたのか。


 一つ確かなのは、彼女が自分の意思に反して連れ去られたということだ。


「そんな、ばかな」


 崩れ落ちるようにカウンターにもたれかかった彼の手のひらに、おれは貝殻の髪飾りをそっと乗せた。


 さあ、悲しい誤解と魔法を解こうか。


「それでも彼女は忘れなかった。かつて大勢の観衆が叫んだ、ルル・シャンテという誇りと」


 髪飾りが淡く光り、巻貝の空洞に「固定」されていた音楽が流れ出す。


「故郷の景色を」


 それはいつかの、ルルさんの口ずさんだメロディ。おれの大事な、故郷の歌。


「これが、故郷を捨てた女の歌声ですか?」


 マスターは滂沱の涙を流しながら、貝殻に縋りついた。かき抱いて、耳にぎゅっと押し当てる。


「ああ、ルルだ。確かにこれは、あの歌姫の声だ」


 泣き崩れる男に、おれはギターを差し出した。




「一曲歌ってくれませんか。ルルのために」




 それからしばらくして、彼は十数年ぶりにギターを手にした。埃をかぶったそれに慈しむように手を触れて、丁寧に弦を絞っていく。


「カイ」


 ずっと退屈そうにしていたアサが、ようやく口を開く。


「なんだよ」


「よく頑張った」


 まったく、うちの相棒は人をその気にさせるのが上手い。


 おれは再び貝殻に手を伸ばし、チューニングの邪魔にならぬように小さく呟く。


「固定」


 店にはすぐに、心を揺さぶるギターの音が満ちていく。続いてバリトンの低い声。


 最高の歌姫の相棒が奏でる曲もまた、極上だ。



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