第2話 カントリー・ロード
ルル・シャンテ。
その容姿は、老人というには程遠い。
ナイフを握るのは白魚のような手。病弱な彼女の肌は透き通るように白いが、年齢を感じさせるような皺とは無縁である。
人魚には老化という概念がない。
その代わり、寿命を迎えると泡になって海に溶けていくんだとか。ロマンティックだけど、どこか切ない終わり方だ。
「ごめんなさい、意地悪をしたかったわけじゃないの」
ルルさんは言葉を失っているおれに言った。ほとんど泣きそうな顔でこちらを心配してくれている。それもまた、彼女の性格をよく表している。
「ただ、そう。最後くらいは、少しでも故郷の近くにいたいの」
そう言うと、彼女は食器を静かに置いた。皿の上にはまだ、半分以上料理が残っている。
「どこにあるかも分からない。名前さえ覚えていないのに、郷愁を感じるなんてバカよね」
「そんなことないですよ。どんな場所なんですか?」
「暖かい海の中にあって、サンゴの森に囲まれてるの。それからこの建物より大きなアコヤガイの貝殻を使ったステージがある。私はその場所に立ってなにか叫んでる。そうすると、身体中にエネルギーが満ち溢れるの」
その光景を思い起こすだけで、彼女の頬にほんのりと赤みが戻る。
「それって、控えめに言って最高ですね」
「まあ、全部私の妄想かもしれないのだけれど」
ルルさんは舌を出して笑った。
実を言うと、彼女に関してはっきりしているのは、その名前だけだ。
自分が人魚ということすら、担ぎ込まれた病院の検査で分かったことらしい。
病室のベットで目を覚ました彼女はすでに、光と記憶を失っていた。
思い出せるのは、靄のかかった頭の中に響くその名前と、昔住んでいた海の都の朧げな記憶だけ。
だから正確には、その名前すら彼女のものか定かではない。
そんな暮らしの中で、陸にあがったマーメイドは徐々に衰弱していく。
そして海に帰ろうにも、彼女は人魚の形態に戻るための魔法の歌も忘れてしまっているのだ。
おまけに海は広くて、残酷だ。そんな中から名前も知らない街を探すなんて、地図も持たずに砂漠を渡るより難しい。
彼女にとって、死出の旅路だけが故郷への道なのだろうか。
沈黙を破ったのは、通信魔道具から流れ出した呼び出し音だった。
「あら、着信音を変えたのね」
「ああ、コール音がやかましいって苦情があって。これ、おれがいた世界の曲を真似て入れてみたんです。故郷を想う曲なんですけど」
「いい曲」
帰りたくても帰れない、故郷。それはおれにとっても、どこか胸を締めつける甘いメロディだ。
通話ボタンを押すまで、ルルさんは瞼を閉じてメロディに身を委ねていた。おれが会話している間も、彼女は今聞いたばかりのメロディを口ずさんでいる。
穏やかな波間に浮かんでいるような気持ちになる、綺麗なハミング。塞ぎかけた心が洗い流される。通話ボタンを切って、おれはルルさんに向き直った。
「あのさ、ルルさん。少しだけ、お願いの内容を変えてもらえませんか」
「あら、私のお願いはやっぱりダメ?」
百合の花のように、マーメイドは首を傾げた。
「そうじゃなくて、別に死んでからじゃなくてもいいじゃないですか」
首を傾げたまま、ルルさんは固まってしまう。
「手伝いますよ、ルルさんの里帰り」
なんとなく、アサの仏頂面が思い浮かんだ。きっと彼女は冷めた目で怒るだろう。また余計なことを口走って。
なあに、海の底だってなんとかなるさ。
世界丸ごと隔てられている場所に里帰りするよりは、だんぜん易しいだろう?
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