第6話 翼の価値


 ハルジオン・ペンドラゴンは間違いなく後世に名を残す傑物だ。


 全ての竜の母にして、天空都市の創始者。怒りをかった者は息吹に焼き尽くされる。空を駆ける彼女の姿は、まさに神話を切り取った舞台のワンシーンだ。


 だけど彼女は偉大すぎた。だからこそ、その姿は強烈に人々の脳裏に焼き付く。竜族にとって彼女は、誇りであり魂だ。


「それがいつの間にか、竜が天空の支配者なんてたわけた話に変わってしまった」


 何百年も経つうちに、歪んだ。誇りはいつしか優越感に変わり、やがて驕りに凝り固まった。



「おはるさんも、竜族のみんなが大好きなんですね」


 おはるさんも。彼女の頭に浮かんだのは、きっと堅い表情をした美女だろう。


「あの子は竜の巣の生まれでね。ワタシの話す人間の暮らしが大好きだった」


 カエンのことを語るおはるさんの瞳は、どこまでも優しい。


「だけどあの子には、広い世界に飛び出す翼がなかった。身体を包む空は触れられるのに遠く、掴み取るにはあまりに頼りなかった」


 その瞳が閉じられる。


「ワタシの目の届かないところで、カエンはずいぶん苦労したらしいね。血族の中でも、翼のない子はよくからかわれる」


 だけど少女はめげなかった。悪戯坊主どもには鉄拳で応えたんだとか。お堅い美女は、今では信じられないくらい闊達な少女だったようだ。


「あの日もこっぴどくからかわれたらしくってね。珍しく半ベソかいてるもんだから、どうしたんだって聞いたんだ」


 幼いカエンはこう答えたらしい。「空を飛べないなら、おまえがハルジオン様のひ孫なんて嘘っぱちだって」


 たぶんカエンはおはるさんが大好きだったんだ。そしてそれを否定された。自分に翼がないせいで。


「ひどい嵐の晩だった。黒い雲が竜の巣を包み、外を歩いているだけ肌がピリピリするような雷の匂いがしていた」


 おはるさんがブルリと翼を震わせる。おれは黙って、彼女の翼に手のひらを添える。


「そんな夜に、子供が空に憧れて飛び出した」


 おはるさんの瞼が開かれる。


「ただそれだけの話だよ」


 そしてその子は助け出された。竜王の翼と引き換えに。ただ、それだけの話だ。


「歳はとりたくないね。雷なんぞで火傷するなんて」


 そう言ったおはるさんの声は、いつもの調子を取り戻していた。


「それから人が変わったように大人しくなっちまってね。篭って本ばかり読むようになっちまった。いつの間にか、ワタシの政務の手伝いなんて生意気にしてね」


「それからしばらくして、おはるさんは引退したんですね」


「カエンが一丁前に育ったからね。仕事はできたよ。だけどあの子の中で、あの日の雨雲は晴れちゃいない」


「おはるさんからのメッセージだったんですね、竜王就任は。過去のことなんて気にしてないっていう」


「アレはワタシが間抜けだっただけだし、翼が傷付かなくても竜王は辞めるつもりだったからね。だけど代替わりの度に声をかけても、あの子は首を縦に振らない」


 そしてまた、別の竜が選ばれる。だけどマザードラゴンのお眼鏡にかなう竜王は出てこない。唯一の合格者は、罪悪感の檻の中だからだ。


「安心して死にたいんだけどねえ。ボンクラな男どもに任せて、竜族の未来が傾くのも運命の成り行きか」


 おはるさんは寂しそうに呟いた。





「それじゃあおはるさん、やってみましょうよ」


「なんだい藪から棒に」


「要はおはるさんが飛べなくなったことに責任を感じて、カエンさんは竜王就任を断り続けているんですよね」


 おれは訝しがるおはるさんに微笑んで、はるかな空を指差した。


「おれは矮小な人間だけど、空飛ぶなんてわけないさ」


 雨はまだやんでいない。だけど虹色のパラソルに弾かれる水滴が、リズミカルな曲を奏でている。

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