第3話

 蒼生くんの手がすっと伸びてくる。彼の親指があたしの左目の下の、柔らかい部分を撫でた。それから親指を見せつけてきた。指先には黒い粒がぽつんと付着している。泣きすぎて落ちたマスカラだ。舞台が終わってからずっとついていたのかと思うと、なんだか気恥ずかしい。


 そんなの知ったことないと、蒼生くんはおしぼりで指先を拭う。猫みたいな目で、あたしを見てから微笑んだ。


「……亜由さんが歳上だってこと、ときどき忘れちゃう」

「そうだね、あたしも忘れる。まあ、花ステファンに年齢も性別も関係ないのよ」

「そりゃそうだ。まあ、なんでもありの舞台だからね。ファンもなんでもありだ」


 蒼生くんは苦笑してから、珍しく酒を注文していた。ほどなくしてから、グラスに注がれたビールと水が運ばれてくる。


 小さな金色の泡がグラスの底から上へ立ちのぼる。きれいだ。蒼生くんがグラスを傾けると、その泡が彼に流れこむ。そうすると、蒼生くんもきれいに見えてくる。


 蒼生くんは肌も真っ白で、かわいい顔立ちをしている。二十代前半だけど、もっと若見えする。

 だけど、手元だとか喉仏とか、そういうところを見ると成人男子なんだよなあ、と思い直す。


 実は一度だけ、蒼生くんを家に泊めたことがある。飲みすぎたばかりに道端で吐いて動けなくなった彼を、放っておくわけにもいかずに仕方なく連れて帰った。


 かわいいとはいえ、仮にも男の人を泊めるのは抵抗があった。なにかが起こった場合に、ふたりきりになったのが悪いとされるから。あたしにその気はなくても、だ。


 ふたりきりになった瞬間に、あたしはそういうことをされてもいいのだと有無を言わさず決めつけられる。これが世の常だ。自意識過剰かもしれないけど。


 とはいえ、真っ青な顔をして動けなくなった蒼生くんを放っておくのも後味が悪そうだった。

 とりあえず蒼生くんを自宅に連れ帰りベッドに寝せた後、あたしは浴室に鍵をかけて閉じこもり、朝を迎えた。


 翌日、蒼生くんはあたしにごめん、とひと声だけかけて顔も合わさずに出ていった。後日、眉毛を下げて謝った姿が、頭の中にこびりついている。


「珍しいね。今日は飲むんだ」

「うん。あ、でもこの一杯でやめるから。これでもちょっと強くなった……いや、飲み方を覚えたっていうほうが正しいのかな。ちゃんと自分でお家に帰るよ」


 蒼生くんはあのときのことをまだ気にしているらしい。蒼生くんのそういうところが、あたしは結構好きだ。いい子だなあと思う。


「心配してないよ。蒼生くんのこと信じてますからね」

「……そ。でも、うん。それならよかった」


 安心したようにはにかむ彼を見て、あたしも嬉しくなる。この世の常とやらをひっくり返してくれる存在が、あたしのそばにはあるのだと思える。


 蒼生くんがトイレに立って、テーブルにひとりで残された。泡が切れたビールは先ほどの輝きを失いつつあるけど、それは蒼生くんの身体に今流れている。


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