第21話「大陸の目」⑥

   ■□■


 穴の中へ足を踏み入れたキーンは、すぐ変化に気がつく。

 まず、底にあった蜘蛛の巣状のものが消えている。それでも奥まで見通すことはできなかったが、代わりに壁面の一部がぼんやりと光るようになり、降りるのに不都合がない程度に足元が明るい。

「この光る石も、方術なのか?」

「そうだ。この縦穴には掘り進めるのに使われて砕けた扶桑があちこちに埋まっているんだ。それをグロリアが術式で反応させたんだよ」

 先ほど移動の際に足元へ投げていた扶桑のように性質を変えて光らせている。燃焼反応ではないため、触れても熱くはなかった。

 底まで降りると、そこから横穴が広がっていた。明かりがないので視界が狭く、多少の息苦しさを感じながら進むと、先にグロリアの背中が見えた。

「いらっしゃい」

 振り返って微笑む仕草には、待ち人が来たとばかりの穏やかさがあった。

 来たんだ、と驚くそぶりもない。予想していたのだろう。驚くくらいなら、そもそも降りた地点でキーンたちを待っていなかったはずだ。

「ここは、何なんだ?」

 ひやりとした空気と湿気がある。声の反響からして、かなりの広さがある空間のようだが暗すぎて何も見えない。

「あ、キーンくん。ここから崖とかがあるから気をつけてね」

「……気をつける」

「水があるぞ。地底湖というやつか」

 人間とは異なる視覚を持つティエンには周辺の様子が見えているらしく、危なげなくとがった足先で跳ねている。

 その地底湖と思しき水辺で何かが跳ねる音がした。魚がいるのか、とキーンがそちらへ視線を向けるも、闇の深さにあきらめた。

「大きな魚だ。人間くらいの大きさがあったな」

 やはりティエンには知覚できたようだ。魚の大きさに驚愕するも、そこで引っかかる。

「魚……鮫人(こうじん)」

 ジャンから聞かされた、機織りをする鮫人の存在を思い出す。かの存在は人の運命を織り、その未来を嘆いて涙をこぼす。そしてメレネロプトでは鮫人の涙から鱗珠を得るため、今も鮫人がどこかに存在しているという。

「なあ、あそこに」

 言いかけたが、ジャンとグロリアは先に進んでしまっていた。ティエンはあまり興味がないらしく、キーンを置いて行かない程度に側にいるだけ。

 振り返っても、地底湖は静まり返っていた。もし本当に運命を織る鮫人がいるのなら、自分たちの行動を見て、今も笑うか泣いているのかもしれない。

 好きに観察すればいい、とキーンは背を向けて立ち去った。

 足元が見えないので慎重に進んでいると、グロリアが扶桑の明かりを増やしているのかその姿が闇の中でぼんやりと浮かび上がっていた。

「あ、キーンくん、来た来た。危ないから手をつなごうか」

 別に、とそっけなく返すとグロリアは前へ向き直し、ぽつりとこぼす。

「……メレネロプトね、真正幽世帝国って名称があるんだ。ずっと、変な名前だと思ってたんだよ」

 急な話に戸惑うも、グロリアの落ち着いた様子に話を進めさせる。

「幽世には、黄泉の国、あの世、死後の世界、永遠に変わらないものという意味があるそうだよ。でも国の名前にするには不適当に思える。あと、皇帝が支配しているわけでもないし」

 国の名称の細かい区分まではキーンにはわからなかったが、それでも言われてみれば、自分たちの所属する領域に死後の世界を思わせる名前をつけるのは少しばかり不穏な気がした。

「けど、本当に、変わりたくなかったんだろうね」

 だから、ここにあると思ったんだ。とグロリアはこぼす。

 重たい、鉛のような声音だった。

 言いながらグロリアが足を進めるので、キーンらも足元に気をつけながら前に出る。だがすぐにグロリアが縦穴と同じ術式を使ったらしく、周囲の石がにぶく光りだした。そのおかげでわずかに周囲の様子を探ることができるようになる。言われたとおり、すぐ隣が崖になり、水の流れる気配があった。

 そして光る小道をたどっていくと、二本の石柱が現れる。古く、やや傾いていたが門のようにそびえ立っていた。

「ここが、こちらとあちらの境界線」

「こちらとあちら?」

「ここはね、黄泉平坂(よもつひらさか)という場所を再現しているの。そこは生者と死者の境界になる」

 言いながら、グロリアは迷いなくその境界となる石柱を越えて向こうへ行ってしまう。キーンもそのあとを追う。抜けたところで何も変わらないと思ったが、手前で反射的に足を止めてしまった。

「……あれ……」

 石柱の向こうには、石の橋があった。橋といっても、天然の岩石が偶然、橋に似たアーチ状になっているようだ。

 だが、問題は橋ではない。

 橋の上に、顔のない女が立っていた。

 女は橋の向こうの空間へ、まるで何かを求めるように両手を伸ばした格好をしていた。服装がメレネロプトを脱したグロリアが身に着けていた着物に似ている。そして、女の身体は顔同様に、いびつに欠けていた。

 顔はもとの造作がわからないほど削り取られ、表面どころか内部も空っぽになっている。指が何本かなく、脇腹から空洞になった内部がのぞける。まるで紙細工のように薄皮一枚だけで立っている女の様に、柱の手前でグロリアをのぞく全員が足を止める。

 グロリアだけは迷いなく進み出た。女の隣に立つと、表情を消す。 

「きっと、彼女が初代メレネロプトの女王。ここに燭陰を封じた際、自らも飲み込まれた。この姿は、ただの残滓」

 そして、つい、と顔を上げる。

 キーンはグロリアが何を見ているのかわからず首をかしげた。橋の向こうもぼんやりと光っているが、壁しかないように思えたのだ。

 壁だけ、そのはず。

「……っ!」

 ひゅう、と喉が鳴った。心臓が跳ね、身体が震える。

「わかったか」

「その、……」

 ジャンが後ろから両肩に手を置いてくる。正直、支えがあって助かった。

「あれ、は」

「大陸を囲う、巨大な蛇」

 壁だと思っていた。何か模様のように見えるのも石の具合で、橋の向こうは行き止まりなのだと、漠然とそう考えていたのだ。

「確かに、でけえな。目しか見えねえけど」

 ジャンは笑うも、その笑声は乾いていた。

 壁にしか見えなかったそれは、全体を引いて観察すると、巨大な眼球だった。

「燭陰は蛇の体躯に人間の顔をしているそうだ。けど、まあ……あれじゃあ容貌なんてわからんな。つか、蛇なのかどうなのか」

「目っ、目だけであんなにでかいのか!」

 壁の高さはハミオンにあった高層建築物並みにある。どうやってか壁の穴から目だけをのぞかせている様子だ。

 巨大という言葉すらも生ぬるい眼球にキーンは息をのむ。目はまばたきもせず、ただ開いている。こちらを認識できているのかもわからない。それに、とてもではないが現実にある光景には思えなかった。

 慌てふためくキーンに、グロリアは涼やかに笑いかける。

「そう、あれが燭陰。この大陸を取り巻く存在」

 本当にいたんだね、と彼女は何でもないことのように告げる。ジャンは少しばかり落ち着きを取り戻したらしく、キーンの肩をつかんだまま息を吐く。

「体長が千里に及ぶっていうのは、昔話あるあるって思ってたけどなあ。まあ、あの欠けた女同様、見えている姿が実体ではないんだろうな」

 実体ではないが、仮に一部の姿を写しとっているだけだとしてもあまりに巨大だ。逆に異形の眼球からは、キーンらなど地面をうろうろしている昆虫程度だろう。

「ティエン、干将がどこにいるかわかる?」

 その異形に呆けていたが、グロリアの静かな声で我に返る。ここへ降りてきた目的は、燭陰を貫いているとされる干将を探すことだ。

 こつり、とティエンは先のとがった足で前に出ると、鋭い視線を上げる。

「─いるぞ」

 かん、と鋭い音がした。ティエンが地面を蹴って跳躍したのだ。人の形をした器物は銀色の軌跡となって宙を飛ぶ。途中で岩盤を支点にしてさらに高く舞い上がる。

「ここだ」

 最高点に到達すると、くるりと身をひるがえす。白い髪と衣装がひるがえり、そこから鋭い刃がのぞく。

「干将は、この向こうだ」

 腕が伸び、丈の長い袖の中から薄くも剣呑な輝きを持った刃が出現する。続いて半ばから千切れるようにして射出された。

 目標は、壁よりも大きく立ちふさがる眼球。

 いくつもの銀色の筋が少女の腕から噴出し、眼球へ向かう。だが対象に対して刃があまりにも小さく、吸い込まれていく様は細かい筋にしか見えなかった。

 それでも数十、あるいは数百の刃を放つとティエンはそのまま自由落下する。足元を確かめることなく軽やかに着地した。

「おい、いきなりだな……いや」

 まさか、とジャンが驚愕し、グロリアにつめ寄る。

「グロリア、おまえ、もう燭陰にかかっていた術式を壊してやがったのか!」

 ジャンの声にもグロリアは涼しい顔をしている。

「ええ、壊したよ」

 降りてからすぐにやった、とグロリアはあっさり言い放つ。彼女はキーンたちが下へ降りてくるまで待っていたのだと思っていた。だがそれにしては内部状況にくわしく、顔のそげた女を見ても動揺した様子はない。

 それも先に探知していたのかと思い気にも留めていなかったが、すでに目的を果たしたあとだと考えれば得心がいく。

「けど、私にできたのはそこまで。干将がどこにいるのかはわからなかった」

 静かに笑うグロリア。その彼女の背後にある眼球に亀裂が入る。

 ひび割れは最初は小さなものだった。だがひとつがふたつになり、重なり合ううちに全体へと波及していく。

「割れる、のか?」

「あの目は実体じゃねえのさ。見たままの壁だったみてえだな」

 はらり、と眼球の表面が剥離する。ちらちらと落下する破片は洞窟内のわずかな光を反射し鏡面のようにきらめく。彼らと眼球の間に距離が開いているせいでわかりにくかったが、破片のひとつひとつはそれだけで人の大きさ程もあった。

 静かに、音もなく崩れていく。

 そうして向こうがのぞけた。

 暗く、光の届かない暗幕のように思えた。

 そこに星がひとつまたたき、そして、飛び出した。

「っ!」

 動けたのはティエンだけ。キーンもかろうじて、向こうから何かが飛び出してくるところまではわかったが、詳細までは見えなかった。

 見えたのは、眼球の向こうから飛来したそれをティエンが受け止めてから。

「干、将……」

 受け止めるといっても、ティエンにつかむ手はない。身体全体を使って抱きつくようにしていた。

 華奢な体躯に抱え込まれているのは、長い刀剣だった。

 刀身は黒く、表面にはひび割れに似た模様が浮かんでいる。

「伝説の干将と同じ、亀裂紋様ってわけか」

「今は見えないけど、ティエンも表面に水面みたいな模様があったよ」

 干将と莫耶。かつて存在したとされる伝説の刀剣の名を冠した武器がそろった。

 キーンはしばし、魂を抜かれたように立ち尽くす。

 刀は器物、それ以上でも以下でもない。

 だというのに、背筋が震える。

 いったい、何が起きているのか。キーン自身、己の反応に戸惑う。だがわけもなく、ここに居たくない、逃げ出したいという衝動が湧き上がってくる。

「な、に……」

 後ろ髪がちりちりして首をすくめたくなり、足腰から力が抜ける感触。それらは恐怖感に似たものだった。

 けれど、横目で見たグロリアたちは「伝説のとおりだ」「見つかったね」と刀剣の表面にある文様を見て驚くだけで、いたってのんきなやり取りをしている。

 キーンは自身の中で巻き起こる不安と恐怖の正体がわからなかった。スコルハは潜在的に感覚が鋭いとされている。それでも、体験したこともない経験を理解することはできない。伝える言葉も見つけられない。

 そのため、目の前で起こりつつある驚異を回避する方法など思いつかなかった。

「干将……我だ、莫耶だ」

 ティエンが話しかけるも刀剣は答えない。むしろ器物がものをしゃべったり自らの意思で行動することの方がおかしい。それでも自ら行動し、思考し、言葉を発することを覚えた器物はそれが当然のものとして声をかける。

 逆に器物のままの刀剣からは、言葉以外の返答が来た。刀身から、きいいいいん、と高速振動するような音が漏れる。その衝撃にもティエンは己の半身を離すまいとするも、渦巻く黒煙が噴出した勢いに負けて吹き飛ばされる。

 その様子に、立ち話をしていたグロリアらが弾かれたように顔を上げ、動く。グロリアが走るも、ティエンが地面に叩きつけられるのを見るだけ。

「……問題ない」

 むき出しの岩に叩きつけられたティエンは支えもなしに立ち上がる。つかむ手も、踏みしめる足の裏も持たない四肢で直立すると、走り寄ってきたグロリアを逆に守るように立ちはだかる。

「何があったの」

「干将だが、呪いを吐き出している」

 ティエンの声は、不意に巻き起こった、どおおおおっ、という響きにかき消された。洞窟内の湿った空気を揺るがす振動が中空に静止したままの刀剣から発せられる。亀裂紋様の刀剣は自らが生み出した黒煙の中、威嚇するようにときおり青白い光を放ち、キーンの目を射る。

「キーンくん、下がって」

 言われ、ようやくグロリアが前に立っていることに気がつく。いつの間にか呼吸が早く、視野が狭くなっていた。息がしづらくなり、反射的に胸元あたりの衣服をつかむと、グロリアが気づかわしげに顔をのぞき込んでくる。

「あの黒い煙、近づかない方がいいよ」

 よくわからないけど、と眉尻を下げる。グロリアにもあの黒煙の正体はわからないらしい。それでも不安を残しながらも笑いかけてくる姿に呼吸が落ち着いてくるのを感じる。

 そして、騒がしい声は別に発生した。

「おいおいおい、あの刀、なんか怒ってねえか?」

 慌てた様子でジャンもこちらへ走ってくる。キーンをかばいながら前に出て思案顔をするも、今度はグロリアが頓狂な声を上げた。

「あっ、そうか! 怒ってるんだよ!」

 はあ? とジャンが盛大にあきれた顔をするも、すでに自身の思考に没頭しているらしく、周囲の様子など目に入っていない。口中で何かこぼしているが、聞き取れなかった。

 だが考えをまとめるのは速い。すぐ振り返ってくるも、どこか悔やむように眉をひそめた。

「ティエンと同じなんだよ。昔ね、実家の地下室にあった刀剣から声が聞こえたんだ。だから私はその声を外へ届けられるようにした。動ける身体を作った。けど、干将はそれができなかった。ずっと、ずっと、耐えて、我慢してたんだよ」

「ああそうだ。我には上手く代弁できないが、干将は叫んでいるぞ」

 ティエンが押し出した声は、広い洞窟内にはっきりと響き渡る。

「人間が、憎いと」

 すさまじい轟音が耳を覆った。どんなに手でふさいでも、決して消すことのできない音だった。台風じみた圧力が、たった一振りの刀剣から発生している。

 キーンは音のすさまじさに苦鳴を上げるも、同時に気がつく。

 耳に聞こえる音のすべてが、声だった。

 絶命の叫び。苦痛にうめく泣き声。

 怒号。絶叫。悲鳴、悲鳴、悲鳴。

 何十万、何百万、もっとたくさんの罵り、叫び、怒り、恨みといった声が心の中にまで突き抜けてくるようだった。

(やめろ、やめてくれっ!)

 耳をふさぎ、目を閉じる。いま目を開ければ、渦巻く黒煙のよどんだ色に飲み込まれそうだ。それほどまでに憎しみの声は、押し殺すほどの力で襲いかかってきた。

「キーンくんっ!」

 グロリアがキーンの肩を引き寄せる。強い力と必死に呼びかける声に、地の底へ吸い込まれそうになっていた意識が持ち直す。

「グロ、リア……」

「大丈夫、この声は私たちを攻撃しているわけじゃない」

 ふらついていたキーンを代わりにジャンが支えてくれる。けれど男もまた、苦しそうに顔をゆがめてどうにか立っているありさまだったが。

「個人には向いてなくとも、人間全部を憎んでいるなら一緒だろうが」

 まあねえ、とグロリアは力ない笑みを浮かべる。

「干将は、燭陰の楔にされた。そして封じられている間に感情を得てしまった。けれど、自身の境遇を訴える手段も、不満を発散させる方法もわからなくて……次第に、憎しみを覚えたんだろうね」

 うかつだった、とグロリアは肩を落とす。

「ティエンが意思を持って動き出せたのだから、半身である干将も同じ可能性に思い至らなかった。器物だから、封印を開放すれば楽に回収できるって考えてたんだ」

 実際には、封印を開放したことで、これまで貯めに貯めていた怒りや不満といった感情が暴走し、憎悪が渦を巻いて場にいる彼らを押しつぶそうとしている。

「あの状態の干将を外へ出すわけにはいかない。ここはまだ封印の影響下にあるけど……洞窟の外でこんな怨嗟を撒き散らせば、それこそ疫病のように広がってしまう」

 現状、グロリアたちは干将の感情を受けても、気分が悪い、頭が痛い程度ですんでいるので外への影響も大災害というほどひどいものではない可能性もあった。それでも、百年物の憎しみを撒き散らす存在を解放するわけにはいかなかった。

「干将はもう、呪うことそのものが目的になっているのだと思う」

 自身の身に起こった事態を解消するために訴える言葉は届かなかった。そのため、ただひたすらに、憎い、うらめしい、といった負の感情を噴出するだけの機構になってしまう。

 と、そこに地揺れが重なる。小さな揺れが足の裏を通じて走り、微震が長く続く。地下深くにいる彼らは生き埋めになる恐怖を覚えるも、それ以上の脅威が襲いかかる。

「おい、あれっ!」

 ジャンの声に全員が視線を一点に集中させる。示す先にあるのは、巨大な眼球。

 それが、ゆっくりと、まばたきしていた。

 これまで目を開けたまま寝るか気絶していたが、意識が戻ったので目をしばたたかせているような、何てことのない動作。先ほど、干将が飛び出した部位は欠けたままだったが、影響はない様子だ。

「……燭陰が、目覚めた」

 だがどうなるのかは、誰にもわからない。

 ただあの眼球は実体ではないので、洞窟に埋まっていた巨大蛇が動き出して穴が崩壊、生き埋めという事態は避けられそうだった。

 それでも、目覚めたというだけで地揺れが起こるほどの影響力はある。

 彼らは、決断を迫られる。

 このまますべてを放り出し、身を守るために逃げ出すか、何かできることを探すか。

 迷っていたのは、人間だけだった。

「干将」

 やわい身体しか持たない人間がうろたえている中、鋼の器物を中心に、無機物とも有機物ともわからない物質で組み上げられた存在は、こつりこつりと硬い足で軽やかに進む。

 微震で崩れてきた岩を飛び越え、高く跳躍し、人の形を模した器物は先のとがった足先で中空に留まっている相方へ向かって飛んだ。

「干将、我は会いに来た。壊しに来たんじゃない」

 怨嗟の嵐の中、瞳に炎を宿した器物はまっすぐ飛び、必死で叫ぶ。

「干将、干将。我と手をつなごう」

 そうして両腕を掲げる。腕しかない、つかむ指のない棒状のそれを持ち上げ、ここへ降りてこいとばかりに炎の色をした双眸を向ける。

「干将っ」

 手のない腕が、刀に触れようとした瞬間、嘲笑するように憎悪の黒煙が大噴出した。

 ティエンはすかさず横へ飛び、黒煙の直撃を避ける。

「我が共に在る。だから、もう呪うな」

 それでも近づこうとすれば弾かれる。何度も繰り返すうちに、距離感を誤ったティエンは全身を殴られたような衝撃を受け、華奢な身体が吹き飛ぶ。

 落下する身体には血も肉もなかったが、それでも身震いを感じていた。あらゆるものを拒絶する負の感情。そんな、冷たく荒れ狂った絶対的な暴力でこちらを叩きつぶそうとしてくる。

 だがティエンは絶望などしていなかった。どれだけ物理的に揺さぶられても、負の感情を叩きつけられようとも折れることはない。

 前だけを見ている器物の中に、熱が宿る。

 刀剣としての在り方と、まるで人間のような支離滅裂な情緒の発露に、ティエンはある種の感動を覚えていた。その入り混じった感情が、器物の身体と人とは乖離した精神を激しく揺さぶる。

「ティエン!」

 だから、弾き飛ばされても受け身を取ることなど考えていなかった。岩に叩きつけられたところで、この身体は仮初のもの。再生こそしないが修復は容易だ。

 壊れてもかまわない、そう考えて投げ出した身体は、硬い腕とやわらかい身体に受け止められる。

 落下してきたティエンを抱え込んだキーンは、そのまま後ろに倒れ込むようにして衝撃を緩和する。それでも腹の上にある身体と地面にはさまれた胴体はきしみ、うぐ、と声が漏れる。

「……キーン」

 相手の身体を下敷きにしていることに気づいたティエンはすぐに起き上がろうとしたが、棒状の腕では手をついて身を起こす、といった動作が苦手だ。腹の上で転がりかけたが、硬い腕に支えられる。

「必死なのはわかるけど、無茶するなよ」

 キーンの金属の腕は華奢な肢体を力強くつかんで支え、金属の足はしっかりと地面を踏みしめる。

 うらやましい、と思った。

 先端のない四肢は、すべてを切り裂く。

 だが、何もつかめない。先ほど干将を受け止める手があれば、何か変わっていたかもしれない。少なくとも、もう離さないと抱きしめることはできたはず。

「ティエン」

 大丈夫か、と気遣うように触れてくる手は優しい。キーンは機械義肢であること、肉と骨の四肢を持たないことを気にしているそぶりを見せることはあったが、ティエンにしてみれば十分だ。

 誰かと手をつなぐのに、生身も金属も関係ない。

「……グロリア、我は行くぞ」

 再びとがった足先で立ち、何もつかめない腕を振る。

「そうだね。まず、話ができるくらい干将には落ち着いてもらわないと」

 言って、グロリアは笑う。ティエンは笑いこそしなかったが、自身を支えているキーンを見上げると、その優しい手の中から出て歩き出す。

 こつこつと進む歩調が早まり、数歩進んで再び跳躍。

「ティエン、行って!」

 声と同時に周囲の岩壁が爆散し、中から木の根に似たものが噴出する。グロリアが壁の中にあった扶桑を活性化させたのだ。

 うごめく根はティエンの足場となったが、洞窟という不安定な環境下で壁を破壊したので、どうなるかわからない。それでも今は先へ進むことだけを考える。

 まっすぐに、扶桑を足がかりにしてさらに飛ぶ。干将は近づくティエンに気づいたのか、黒煙を噴出させて押し戻そうとするも、左右から伸びてきた扶桑が干将にからみつく。

 扶桑自体に攻撃能力はない。そのため、拘束というより、わずかに動きを阻害した程度。

 それで十分だ。

「干将、一緒に行こう」

 ティエンは肥大化した扶桑の上にしゃがみ込む。そうして、両腕を木の根に似た表面に突き刺した。肘まで腕を突き込み、衝撃に微細な破片が散り、白い髪が扇状に広がる。

「したいことも、欲しいものもあるなら、共にやろう」

 肩に力を込め、腕を引き抜く。だが扶桑の一部も一緒になってくっついてくる。飴のように伸びた扶桑が腕にからまり、少しずつ形を変えていく。

 肘から先にまとわりつく扶桑が収縮し、先端で丸くなって固まり、再び弾けた。

 先端が細く、五本に枝分かれしたそれ。

 現れたのは、華奢で小さな右手と左手だった。

「我と、手をつなごう」

 できあがったばかりの手は、関節部分がむき出しで、表面も金属じみた光沢があった。キーンの機械義肢に酷似した両手を広げ、ティエンは三度跳躍する。

 なめらかな曲線を描きながら落下し、扶桑の拘束を弾き飛ばした干将を抱きしめる。刃で寸断されてもかまわないと、手のひらでしっかりとつかんだ。

「我だ、莫耶だ。会いに来たぞ」

 会いに来た、それだけを繰り返す。

 そこで、互いの間で膨れ上がったものが外側へ向けて爆発する。衝撃に白い髪も衣装も無残に千切れるが、ティエンはそれでも離さない、離すものかと刀剣を抱きしめる。

 絶叫じみた音が洞窟内に轟いた。

 キーンはとっさに目を閉じて顔を伏せる。その上に、ジャンが覆いかぶさってきた。グロリアが身を伏せるのは確認できたが、爆風と共に飛来した石つぶてに打ちのめされる。

 衝撃が過ぎ去って顔を上げると、膝に手を置いて立ち上がろうとしているグロリアの頬に血が流れているのが見えた。

「ティエン、待ってて……」

 あえぎながら、グロリアは腰を上げると喉から独特の音で歌いだす。方術の始言だ。言葉で周囲の扶桑に指示を出し、目的のために動かすのだ。

 キーンには何を意味する言葉なのかはわからない。それでも、普段なら一言か二言で終わるはずのそれが、まさに歌のように続く様をただ見つめる。ジャンが座り込んだままのキーンの首根っこをつかんで引きずっても、汗と泥と血をまとってとうとうと歌い続けるグロリアを見上げていた。

 隆起していた扶桑から青白い閃光が放たれ、大きく身震いするように鳴動する。衝撃はまだ埋まっている部位まで波及したらしく、大地の表面が揺れた。

 その光と衝撃に、キーンは再び目を閉じる。ジャンは何やら悪態をついていたが、それでもキーンの頭を抱えて守ろうとした。

 瞬間、青白い火花を上げていた扶桑が弾ける。弾けて裂け、上に乗ったティエンを巻き込んだまま波打った。まるで苦しみにもだえているように見えたが、各所から火花を散らしながらもねじれ、収縮し、中心へ向かって折りたたまれていく。

 中心にあるのは、ティエンと干将。

 扶桑は再び干将に巻きつくが、締めつけるのではなく互いに癒着するようにして溶けてひとかたまりになっていく。表面が泡立ち、凝固したものが内側から現れる。

 あれは、とキーンは身を起こす。ジャンもまた、グロリアが何をしようとしていたのか悟ったのだろう、うなるような声を上げる。

 そして、それと相対したティエンの白い無表情に感情の色がつく。

 透明で、まばゆいものを浮かべてみせた。

「……これで、手をつなげるな」

 ティエンは関節がむき出しの人形じみた手で、できあがったばかりの干将の手を握る。

 そこには、刀剣という無機物を芯にした人型があった。

 粗削りで不格好。かろうじて人の形をしているだけだったが、頭部の下の方にあった線が割れると、そこから絶叫がほとばしる。

 強く高く響き渡る声。

 だがそこに、先ほどまで荒れ狂っていた憎悪の色はない。

 それは、誕生の産声だった。

 そして、次の瞬間、大地が崩壊をはじめた。

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