第12話「先住民と異邦人」③

   ■□■


「シーグラス、置いてきちゃったなぁ」

 はぁ、とグロリアは大きく息を吐く。

 といっても、身に着けていたものは下着も含めてすべて取り上げられて戻ってこなかったので、置いて行ってよかったのだろう。

 あの小箱に入っていたガラス片は、子供のころ海辺で拾ったものだ。大人には色付きの石程度の認識だろうが、幼い少女には同じ大きさの金にも匹敵する価値があった。

 シーグラスはガラスだ。瓶などのガラス容器が割れ、海流に流され波にもまれるうちに角が取れて丸みを帯び、表面は擦れてくもる。そうして海岸線に他の石や貝殻と一緒に漂着するのだ。

 つまり、外の世界から流れてきた。

 この大陸の向こうにも、人が住んでいる世界がある。

 それを確信させてくれた小さなかけらは、グロリアの宝物だったのだ。

 ただのガラス片が、少女が走り出す原点となる。

 大陸外の情報はほとんどなかった。大人たちは自分の生活を守ることだけに必死で、入植する前のことなんて教えてくれない。

 出て行ってどうする。

 外は病気が蔓延しているので危ない。

 そんな消極的な発言ばかり。

 たまに船を作って旅立つ者もいたが、大抵は波にのまれ、木の板だけが戻って来る。

 大陸の周囲は純色の賢者がかけた方術が今も生きていて、外からの侵入者や感染症を防いでくれる代わりに、中にいる者は出られないのだという。

 ではずっと、ここに閉じ込められてしまうのか。

 そんなのは、いやだ。

 いやだ、息苦しい、ここから出たい。

 あまりにも子供じみた衝動だった。

 それでも背中を突き飛ばされるようにして、今も走っている。

 走って、走って、走り続けて、ようやく脱出路を見つけたのだ。

「燭陰…(しよくいん)…」

 グロリアは秘されていた名をこぼす。

 その名を最初に発したのは、今は亡き祖父だった。

 当時、熱心に外の世界へ興味を持ち、今すぐにでも手漕ぎのボートで外洋へ出ようとする末の孫を引き止めるために教えてくれた真実。

 ユージン大陸から他者が入ることも出ることもできないのには、わけがある。

 純色の賢者が方術で大きな蛇を呼び出し、大陸のすべてを囲んでしまったのだという。

 その蛇の名は、燭陰。

 蛇は鍾山と(しよようざん)いう山のふもとに住む神で、顔は人間だが赤い鱗をした長大な体躯を持つとされている。

 燭陰が大陸を守っている限り、誰にも攻められないし、誰も出て行くことができないのだと祖父は語ってくれた。

 幼いグロリアが、蛇はそんなに長い間同じところにいて飽きないのか、とたずねると、祖父は少しばかり痛みをこらえるような顔をする。

 燭陰は守護の仕事を放り出さないよう、尾が海の底につなぎ留められているのだ。

 純色の賢者は方術で燭陰の召喚を行う。そして蛇が逃げ出さないよう、宝剣で尾を串刺しにしたという。

 ひどい、とグロリアは憤る。

 そんな剣は抜いてやる。痛い思いをしてまで守って欲しくない、とついには癇癪を起こす末孫に弱りきった祖父はもうひとつ、秘密の話を教えてくれた。

 実はね、その尾に刺さっている剣は、雌雄でひとつ。

 使われたのは、雄の剣。

 残された雌の剣は、さあ、どこにあると思う。

「……うちの地下室にありましたとさ」

 トラヴァース家は祖父の代でメレネロプトを出てハミオンへ移り住んだ。

 グロリアが聞かされた昔話は曾祖父からもたらされたものらしい。聞くところによると、祖父は黒の一族内ではそこそこの位を持っていたが、権力闘争に敗北し、妻と生まれたばかりの父を連れて出て行ったという。

 一族の名を捨て、トラヴァース姓を名乗っていたが、メレネロプト内部とはひそかにつながりがあったらしく、その縁をたどってグロリアは養女となったのだ。

 そこで一緒に持ち込まれたのが、雌の刀剣『莫耶(ばくや)』。

 なぜそんな秘宝を捨てた子供に与えたのかは不明だが、祖父は「これはおまえの守り刀だ」としきりに口にしていた。

 その守り刀を手放し、生まれた場所へやってきたグロリアの目的は、莫耶の対となる雄の刀剣『干将』(かんしよう)の行方を追うため。

 どこにあるのか。本当に蛇の尾に突き刺さっているのなら、場所や、引き抜くためには何が必要なのか。さすがにそのあたりの情報は内部の、それもかなりの深淵にまで踏み込まなければ届かない。

 ただ探そうにも、現状は一室に軟禁状態なのだが。

 閉じ込められている部屋は、密室ではない。窓は開放され、扉も鍵は内側にしかついていない。内装も豪奢で、グロリアの周囲には一般人が一生涯働いても手に入れられないような物品が多数並んでいる。何となく置いてある壺や水差し、絨毯に至るまで、すべてが超のつく高級品だ。

 それらに囲まれているグロリアもまた、数日かけて磨かれた。

 日に焼けた髪と肌は香油や蜂蜜を塗って整えられ、白粉を塗って紅をさし、爪も艶を出したり小さな石を貼りつけられ輝いている。

 衣服もこれまで着ていた作業着同然の、頑丈さだけが売りのものとは正反対だ。

 基本は「上衣下裳」と呼ばれる、黒の一族が持ち込んだ特有の衣装になる。上がブラウス、下が巻きスカートのような構造になり、この上に薄い上着を重ねる。

 さらにここに権威や財力が加わることで、袖や裾があきれるほど長くなり、何重にも重ね着する。その上から首飾りや帯玉をつけ、髪は結い上げて簪だ(かんざし)らけにされた。

 まるでショーウィンドウに飾られる人形になった気分だ。動きにくく、立ち上がるのも億劫だったが、これでも女中から言わせれば「普段着」の部類に入るらしい。

 普段、普通とは、とグロリアはともすれば重みで折れそうになる首を必死に支え、疲弊しながらも室内を見渡す。

 調度は目をみはるものがあるが、室内にある品のすべてはグロリアのために用意されたものではなかった。

 明らかに、他者が使っていた形跡がある。

 女性で、年齢はグロリアと同じくらい。

 考えるまでもなく、ここは亡くなった姉の部屋だろう。

 だが、グロリアの世話をする使用人はすべて入れ替えられたらしく、違う女が座っていても誰も何も言わない。

 気になる点といえば、衣装部屋にあった大量の服はどれも丈が合わなかった。どうやら双子の姉はかなり小柄だったらしい。ただ元から引きずるほどに長いので、あまり違和感はない。女中らは少しばかり不思議な顔をしながらも着付けてくれた。

「模様とか生地の色も、私の顔には合わないかな」

 ううむ、となりつつ肩をすくめる。今日飾り立てられたのは、自分をだましてここへ連れ込んだ「姉の夫」が来るから。どのような人物なのか、何が目的なのか。

「……まあ、どうでもいいけど」

 ここで簪のひとつでもこっそり持ち帰ることができれば、それだけで当座の資金には困らない、と世知辛いことを考えてしまうのだった。


   ■□■


 姉の夫を名乗る人物の第一印象は、影が薄い、というものだった。

 名は黒麗孝。

 発音が難しいので、リキョウかレイコウかと尋ねるも、返事がなかったので、適当にリキョウと呼ぶことにする。

 もっとも、呼びかける機会はなさそうだが。

 背は高くもなく低くもない。体格も目立った個所はなく、黒髪の男性という特徴しかない。袍服を着替えて通りに出れば、一瞬で周囲に埋没してしまいそうだ。

 リキョウは入ってくるなりあいさつもせず、グロリアを無遠慮に見回す。前から後ろからながめ、立て、と横柄に命じる。立ち上がった彼女の背の高さを見て、不機嫌そうに鼻を鳴らして大きな息を吐いた。

「まったく似ていない。本当に双子なのか」

 グロリアが自身とほとんど視点が変わらないのが何より気に入らないらしく、毛足の長い絨毯を靴先でえぐる。

「んー、事情はよくわからないけれど、ご期待には添えなかったようで」

 口を開くとなぜか驚いた顔をする。文句も言わず、ただ言うとおりに動く機兵だとでも思われていたのかもしれない。加えて、女に中身なんてないと思っている男性は一定数いる。けれど、このメロネロプトは基本的には女系社会。

 だからこそ、妻を亡くした夫のあせりもわかる。

 逆に、そこがグロリアの余裕にもなった。

「その事情とかは説明して欲しいなあ。あ、そうだ、姉には子供がいるんだよね」

 出産時に死亡したことが報告書にあった。産まれた子供は無事で、他にも二人の兄弟がいるようだ。

 双子として生を受けながら、片方は野良着のような格好で機兵相手に大立ち回り、もう片方は深淵の宮殿で女王となり、結婚して子供を産み、そして死んだ。

 ずいぶん違う人生になったものだ、と感慨深い気持ちになる。グロリアは自身の出自を幼いころから知っていた。だが育ての両親も兄姉も、彼女に対して区別なく接してくれた。自由に生きることができるよう、心を砕いてくれたことには感謝している。

 なので、双子の姉とも一度くらい顔を見て話をしてみたかった、という思いがあった。

 だがしかし、子供の話はどうやらリキョウには禁句だったらしく、そこから怒涛のように罵られた。ほとんど聞き流していたが「捨てられたくせに恥を知れ」だの「二度と顔を見せるな」と言われたことに引っかかる。思わず、捨てたのは生みの親の判断で、こちらもあなたの顔はもう見たくないんで帰っていいですか、と言いたくなった。

 内心、予想通りというか、予想以上に毛嫌いされてる状況に失笑がこぼれそうになる。けれどここで笑ってはいけないとばかりに踏みとどまり、つい握った手に力がこもって震えてしまう。それに気づいたリキョウはおびえていると勘違いしたのか、少しばかり機嫌を直して出て行く。

 最後に、説明係はあとでよこすと付け加えてくる。

 控えていた女中がお茶でも入れましょうか、と言って来たので、反射的に甘い茶菓子もつけてくれ、と言ってしまった。


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 お茶と茶菓子で腹を膨らませ、自分の機嫌を取っていたグロリアが適当にくつろいでいると、来客があった。

 地味な格好をした中年女性で、先ほどリキョウが言っていた説明係らしい。

 人払いを、と不愛想に言われた。

 部屋の内外にいるのは、側仕えの女中が二人と護衛という名の監視役が二人。だが追い払うのは女中だけでいいという。監視役にもあっちに行ってくれと言ったが、女性からそれは許容できないと突っぱねられた。

 もし監視役が席を外したなら、説明係を適当に制圧して逃げるつもりだったのだが当てが外れた。とはいえ、逃げる機会はまたあるだろう。それよりもここまで連れてこられた事情とやらが知りたい。

 女中が出て行ったのを確認すると、説明係はグロリアへ向き直った。

 だがしかし、説明係の語り方は恩着せがましいというか、やたらと高圧的で、捨てられた子供のくせにこの立ち位置を手に入れられたことを感謝しろとばかりの一方的なもの。

 なので、言われたことをグロリアなりに解釈する。

 グロリアの双子の姉は、黒の一族を牽引する女王だった。実際には象徴として祭り上げられる存在で、すべての権力を握り、暴君のようにふるまえるというほどではなかったようだ。それでも、対外的な面で重要な部分を占める役職だったことには違いない。

 その女が、子供を産んで亡くなる。

 そこであせったのが、夫側の親族だ。

 妻だった女は黒の一族の直系だが、夫は分家筋からの婿養子。妻の実家という後ろ盾がなくなれば、途端に手に入れたはずの権力や財力を失ってしまう。なのでようやく黒の一族の中枢へ入り込めた夫側親族は、妻の死そのものを隠すことにする。

 妻に双子の妹がいることは、生前、本人から聞いていた。なのでその妹を身代わりに仕立て上げようと画策する。

 そんなずさんな計画を、さも重要事項だとばかりに語る説明係にグロリアは呆けるしかなかった。

 呆然としている間に説明係は帰ってしまったが、グロリアとしては、無理、の二文字しか出てこない。

「えー、よくそんな穴だらけの設定でいけると思ったね」

 双子だから顔は似ているはず、だから大丈夫。という根拠のない自信を逆に尊敬してしまう。女中程度なら全員を入れ替えてしまえばすむ話だろうが、実際に女王に接していた者は他にも大勢いる。そのすべてをごまかすなんて無理な話だ。

 肝心の実務については何もしなくていいと断言された。グロリアをお飾りの女王にして裏で自分たちの好きなように動こうと考えたようだ。

 うーん、とグロリアはうめき声を上げる。

「きっと、仲間内ですごく素敵な計画だって盛り上がって、そのまま突っ走っちゃったんだろうな」

 すごいねえ、とグロリアは完全に他人事の顔になってしまう。話が終わって呼び戻した女中に今日の夕食は豪華にしてくれと注文を出した。食べなければやってられない。

「妻の死を隠しているということは、生みの親や子供たちは、まだ彼女が亡くなったことを知らないわけか」

 部屋には肖像画の類はなく、日記といった個人的な書きつけもなかった。

 亡くなった姉の人となりを知ることはできない。もとよりそこまで興味があったわけでもなかったが、それでも、存在すらなかったことにしていいものではないはず。

「私も、誰かの存在に上書きされるのは嫌だな」

 とはいえ糾弾しようにも、ここで叫ぶのはなおさら意味がない。現状、グロリアは部屋から出る事すら叶わない虜囚の身。

「それでも、やりようはある」

 まずはグロリアの目的を達成してここから脱出し、自身の安全を確保する必要がある。そのうえで余裕があれば、姉の夫に対する罪を告発すればいい。

 ごめんね、姉さん。と会ったこともない双子の姉に謝罪しつつ、グロリアは計画を練るのだった。


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 リキョウは、あの女はどうしている、の問いに対する返答に片眉をはね上げる。

 報告によると、女は退屈だからと書籍を要求した。邸内にある書庫の古書を読み漁っているという。外出許可を出していないため目録から選ばせ、それを運び込ませている。

 読んでいるのは主に方術に関する理論や術式を集めたもの。女の前歴を考えれば納得できる内容だった。ただ術式を実行可能にする道具は渡すなと念押しする。

 その他は、と言うと、報告者は少しばかり口ごもった。せっついて出た言葉は、予想の斜め向こうになる。

「……なん、だと?」


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「言ってみるもんだねー」

 ふへ、とグロリアは紅を引いた口元を笑みの形にする。そのまま読み進めていた書籍から顔を上げて立ち上がる。着ている衣装と装飾品の重さによろめくも、大鏡の布を上げてのぞき込んでみる。

 そこには、豪奢に着飾った女の姿があった。

 襦裙(じゆくん)と呼ばれる衣装は主に女性が着用する。上下に別れた服は、上が襦、下が裙と呼ばれる。男性用や、他にも部分や種類で名称が細かく分かれるが、グロリアが着ているのはその中でも高位のものになる。

 袖は手が出ないほど長く、裳裾(もすそ)も引きずって歩くほど。結い上げた髪には大量の簪が花のように咲き乱れ、腰には帯玉が揺れている。

 これらは正月か祝いの席に着る特別なもので、およそ日常着とはかけ離れている。先日まで着ていたものも豪勢だったが、今日のそれは一族の威信を他者に示すために構築されている。身を飾るというより、その豪華さを見せつける意味合いの方が強い。

 グロリアは本を自由に読ませて欲しい、という条件に、もうひとつ付け加える。

 毎日日替わりで、高級な衣服を身に着けたい。

 願いは叶い、きらびやかな衣装を身につけているグロリアは、光り輝く生地を見下ろして下手な笑いを浮かべると、簪を一本引き抜く。それは白い玉がついたもので、彼女はそれを振り上げると机の角に叩きつけた。

 繊細な飾りはへし折れ、玉は転がっていく。

「おっと……」

 グロリアは折れた軸をその辺に捨てると、家具の間へ入り込みそうになった玉を追いかける。一度、裳裾を踏んで転びそうになったが何とか踏みとどまって玉を拾い上げた。

 白い珠は大粒だが、表面はつるりとしているだけで光沢はあまりない。宝飾品に使うには地味な見た目になる。

 グロリアはこれだ、とこぼす。即座に周囲をうかがって誰も近づいてこないのを確認すると、急いで庭に出た。

 庭といっても円卓と椅子が置いてあるだけの殺風景なもので、周囲は壁に囲まれている。グロリアは柳の下にしゃがみ込むと、根元を掘って玉を埋めて隠す。

 そうして何事もなかったかのように戻ってくると、また読書を再開するのだった。

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