紫極
──それから数十年という歳月が流れたある日。
二人の来訪者が魔界の王城を騒がせていた。
擦り切れた腰布と、外套代わりのぼろきれを纏っただけの、傷だらけの子供二人。年の頃は四、五十――人間という生き物に置き換えて考えるならば概算するところ五、六――ほどに過ぎない。一人の目は滄溟、もう一人の目は烈火。そう、あの兄弟である。
放り出されたら最後、生き延びること能わずと評される、雪と骨の堆積。それは死にゆく者を喰らう生きた雪原、通称”白い墓場”――モルス・アルバから、生還したのである。
前代未聞の、まさに神童であった。
誰もがその二人の子供に底知れぬ何かを感じ、畏れた。ほんの若輩ながら、既に彼らが備えていた泰然たる覇者の風格は、身なりの粗末さなど何の問題にもしなかった。
知らせは瞬く間に時の権力者、魔王ザッハータへと伝わった。
「なあ、レセーン。本当に俺たちが生まれたのはここなのか?」
「ああ、間違いない」
「嫌な場所だ。穢らわしい気で満ちている……雪原の方がましだったのではないか」
「そう言うな、ラサンテ。一生あそこで過ごす訳にもいかないだろう。……しかし戻ってきたはいいが、どこへ行けばいいのやら」
朧気な記憶と、同族の血の気配に導かれるままに、ひとまず己等が生を受けた場所に辿り着いた兄弟であったが、さて、どうしたものか。これといって行き場がある訳ではないのである。何せ彼らは捨て子なのだから――己を捨てた母の元に舞い戻るほど愚かではない。
「父に会おう。住む場所くらいは得られるかもしれん」
そうして彼らは父に会うべく、広大な城の奥へ進んでゆくのだった。
その後間もなくして――
「ほう、生きて帰ったか。流石は我が子らよ」
兄弟は玉座の前に跪き、魔王と対峙していた。そう、彼らの父は、紛れもなく今玉座に腰掛けている怪物――ザッハータその人なのである。
流石は親子と言うべきか、輪郭だけは似通っていた。だが、幼き二人では到底及ばぬ厳しさ、老獪さを魔王が備えていたのも事実である。この異形は、本来目があるべきところにそれぞれ二つずつ、額に一つ、そして左右の翼の大きな裂け目の中に浮かび、常にぎょろぎょろと動き回る眼球を持っていた。虹彩は毒々しい朱、それを取り巻く部分は異次元の闇。まるで瞬きをするかのように裂け目が閉じれば目玉は消え、再び開けばぱっと現れる。頭には捻じ曲がった太い角が生え、翼の末端は瘴気と化して散っている。
凝るどす黒い血、暗闇の底に淀む澱のような──目立つ特徴がなく、姿形が至って素朴なゆえに優美ささえ感じさせる兄弟とは、比べ物にならぬおどろおどろしさがあった。
しかし兄弟が臆する風はない。膝をつきこそしているが、特にラサンテなどは至って不服そうに父王を睨めつけてさえいる。ザッハータその人よりも、そんな弟の様子の方に気を揉むレセーンであった。
が、ザッハータはさして意に介する風もない。
「母親に捨てられ、何処で野垂れ死んだかと思うておったが。その上、知らぬ間に二人目が生まれていようとはな。奴め……まあよい、よくぞ戻ってきた。後であの女にも挨拶しに行ってやれ」
表向きは兄弟の帰還を歓迎しているようだった。何割が本心かは定かでないが。
「我が正嫡を名乗ることを許す。部屋もやろう、好きに使え。精々生き残れるよう励むがよいわ、王家という名の血みどろの沼でな」
魔王の禍々しい哄笑を彼らは黙然と聞いた──慇懃に礼を述べて部屋を辞した後、二人は顔を見合わせたものである。
レセーンは安堵したように息をつき、ラサンテは不機嫌そうに顔を顰めた。
「いけ好かない奴だ。あの目玉の化物が父親とは」
「こら、滅多なことを言うな。折角住まいを与えられたのにまた追い出されては敵わん」
「本当にここに住む気か? 兄貴も物好きだな」
「あの雪原に住み続ける方が余程の物好きだろう……」
寒々しい石造りの回廊を歩けば、行き交う異形の者らが無言のままに道を開ける。
斯くして兄弟は捨て子から王位継承者へと成り上がったのである。
「しかし弱いのだな、そこらの有象無象は」
ひとまず水を浴び、まともな服を得、新しい部屋で一息ついた兄弟であった。
「仕方あるまい。そもそも赫血の流れる者とそうでない者とを比べるのが間違っている」
赫血――”高貴なる赫血”。王家の血筋を意味する言葉である。普通の者よりも血の色が鮮やかな紅であることから付いた名だ。
太古の昔より、強い者だけが加わることを許された氏族の血である。この血を引く者は生まれながらにして優れた力を持つ。先祖の記憶と能力をある程度受け継いだ状態で生まれてくるため、赤子と言えども実質は並の大人と同じようなものなのだ。彼ら兄弟が、誰に教わらずとも言葉を操れるのもそういう理由である。そしてこの力の集積、圧倒的な有利があるからこそ王家の地位は盤石なのであった。
「奴の言葉通り、会いに行ってみるか? 俺たちを捨てた母親に」
ラサンテが笑う。彼は母を知らぬ。
「それも如何なものかと思うが……しかし何故捨てられたのか、理由を知りたいような気もする」
「ならば決まりだ。行くぞ、兄貴」
「分かった分かった。少し待ってくれ」
そうして彼らは、いざ王妃の元へ向かったのであった。
「ここか」
魔城の懐深く、入り組んだ通路に、静寂を割る足音を響かせ、彼らはとある一室の前に辿り着いた。
石の壁が、床が、青白い氷で覆われている。凍りついた扉は、開かれることを拒むかのようだった。
構わず一歩進み出、扉を叩くラサンテ――
「……何用ですか」
幾許かの後、返ってきた声は硬い。
「会いに来たのだ、産んでもらった礼をまだしていないからな」
皮肉に満ちたラサンテの台詞に、空気がぴきりと凍り、そして扉が開いた。
中から出てきたのは、背の高い、細身な一人の女であった。
地味だが上質であろう白い衣から覗く四肢は透き通らんばかりに青白い。いや、最早半ば透き通っているのかもしれぬ。流れ落ちる銀髪に顔の半分が隠れているが、残る半面、露わになった部分は、美しくも無機質な彫刻のようだった。伏せられた睫毛の下、氷色の瞳は烟るようでありながら、冷え冷えと冴えている。
”氷の王妃”。今、兄弟の目の前に立っているその女、ザッハータの正妻ルフェルのことを、人はそう呼ぶ。
結ばれた唇が、微かに震えた。
「……そう」
その声音は驚くほど冷たく、乾いていた。
「どうやって生き延びたの」
死んだはずだったのに、とでも言いたげだった。
「マールム・グラキエス、と言うのだったか。その凍れる山の麓の氷穴で、モルス・アルバの雪が運んで来る死体を食っていた」
マールム・グラキエス。モルス・アルバの中心に聳える氷の山である。モルス・アルバが常に吹雪いているのは、マールム・グラキエスが絶えず山頂から雪を噴き出しているからだ、とまことしやかに囁かれていた。生きた雪原、その心臓部。前人未到の、まさに伝説の地だ。生けるものを引きずり込み、尽く喰らうモルス・アルバの雪が、あろうことか兄弟を養うとは──。
「モルス・アルバの加護……それなら、仕方ないわね、生きていても」
兄弟を生還させたのが他ならぬモルス・アルバの意思であるというのなら、太刀打ちしようがない。諦めたような響きが滲むルフェルの冷めた声、そこに兄弟への憎しみがあった訳ではないが、決して子を好いていないのだということは嫌でも分かる。
「逞しくなったこと。遠くないわね、貴方達が名を馳せる日も」
彼女が二人へ向ける眼差しは、一体何なのだろう。そこに情愛はなく、あるのはただ、凍てついた心のみ。屈折した、悲しみとも怒りとも、苦しみともつかぬ何かが、平淡な声音の奥に封じられていた。
「母上……」
レセーンを遮ってルフェルは言う。
「それでも、もうここには来ないで頂戴。私は母ではないわ、貴方達を捨てたのだから」
きっぱりとした拒絶だった。
「そうかそうか、ならばその通りにするさ」
神妙な顔になったレセーンの隣で、ラサンテは相変わらず不敵な笑みを浮かべている。
「礼を言うぜ。よくもまあ、あんな素敵な場所に置き去りにしてくれたものだ。……帰るとしよう、兄貴」
「あ、ああ。……御無礼仕った、ルフェル様。然様、然らばこれにて御免」
早々に踵を返したラサンテを追うも、踏み出して数歩、レセーンはつと立ち止まり、肩越しに振り返った。
「……御自愛下さいますよう」
そう一言。彼の後姿が消えるのを待たず、ルフェルは再び、固く扉を閉ざした。
後に、結局理由も何も訊けなかった、と思ったレセーンであった。
◇
さて、兄弟が城での生活にも馴染んできた頃である。レセーンは私室で書物に目を落としていた。
すると何の前触れもなく、扉が荒々しく開いた。
「兄貴」
挨拶もなしに鋭い声が飛ぶ。
「……刺客か何かか、お前は」
本を見つめたまま、呆れた声でレセーンは返したのであった。別段珍しいことでもない。弟ラサンテが、ご丁寧に扉を叩いて名乗り、返答を得てから静かに部屋に入って来ることなど端から期待していないのだから、構わぬと言えば構わぬのだが、それでも皮肉や小言の一つは言いたくもなろう。
「別にいいだろう、半分俺の部屋みたいなものだ」
「いや、俺の部屋だが」
レセーンの呟きなどまるきり無視して、ラサンテはずかずかと部屋に入って来る。実を言うと、この部屋が半分ラサンテのものと化している、というのも強ち間違ってはいないのだった――隣に己の部屋を持っている彼であるが、自室にいる時間よりも兄の部屋に入り浸っている時間の方が確実に長い。
「鍛錬だ。付き合え」
大体そんなところだろうと、レセーンにも大凡の見当はついていた。果たして予想に違わぬ台詞であった。
「またか? 俺は昨日も……」
「鍛錬に休みはないだろうが。第一、お前でないと相手にならん」
「……全く」
嘆息と共に、レセーンは漸く書物から視線を引き剥がして立ち上がる。
「早く。さっさと着替えろ」
「分かった分かった」
弟に急かされつつ動きやすい服に着替え、彼は苦笑して壁に掛けてある長剣を手に取った。
──魔界において、血縁関係は最終的に意味を持たぬ。両親であろうと兄弟であろうと、蹴落とさなければ生き残れないこと、這い上がれないこともあるのだ。例え家族であってもそこに本当の愛情はない。強者こそ正義であるこの世界、畢竟、他者は全て仁義なき戦いにおける敵に過ぎないのである。
しかしこの兄弟は違った。何があろうと二人で殺し合う気は更々なかった。
共に育ち、補い合い、今も共に過ごす。
彼らは固い絆で結ばれた、互いに唯一無二の友であった。
◇
底冷えする薄暗い廊下に固い靴音が響く。兄弟が向かうは剣の間──魔物達が鍛錬や私闘を行う広間の一つ。
「本当にお前は好きだな、武術が」
「魔術馬鹿に言われる筋合いはない。一日中本なんぞ読んでいて何が楽しい? 足腰が萎えるぞ」
「……」
レセーンがふと呟けば、痛烈な台詞が弟から返ってくるのも常であった。
しかし、それも実は正鵠を射ているのだ。暇さえあれば本を読み漁り日夜研鑽を積む稀代の魔術師レセーンは、それなりに身体も鍛えてはいるが、四六時中剣の鍛錬に明け暮れる弟には到底及ばぬ。体力に関しては、何も言い返せなかった。
モルス・アルバから王城に戻って来た後暫くは、地下室でラサンテと共に剣術の修行に励んでいたのだ。だが、彼らが成長し、剣の間に通い始めたラサンテが瞬く間に剣聖の名を勝ち得てからは、専ら研究のため自室に籠もっていた。そもそも彼が魔術の道を志したのは、鍛錬や私闘によって生傷の絶えぬ弟の姿が痛々しくて仕方がなかったからである。加えて自身が負う傷も直さねばならぬ。レセーンは、魔術の中でも特に研究が進んでいない治癒の術を極めようとしているのだった。
そして本音を言うならば、彼は剣術が苦手なのである。
これは技倆ではなく、好き嫌いの話だ。剣戟となると、相手の肉を裂き、骨を断つ感触が直に伝わって来る。それがどうも好かないのであった。
以前そう打ち明けたとき、ラサンテには一笑に付された。どうやらこの嫌悪感は万人に共通のものではないらしい。誰に聞かずとも、魔戦士達が目をぎらつかせ、猛々しい笑みを浮かべながら剣を振るう様を見れば明白なことではあったが。
俺はもしや腑抜けなのだろうか、と時々思わずにはいられぬレセーンであった。
厚い鉄扉を押し開くと、わっと剣戟の喧騒が溢れ出た。武器を打ち合わせる音、土の床を踏み鳴らす音、荒々しい罵声と雄叫び──それらが高い天井に反響し、幾重にもなって谺する。魔術による炎にぼんやりと照らし出された広間で、銀の刃は鋭く煌めいていた。特にこれといって何もない、だだっ広いだけの空間である。
「喧しいな今日は」
ラサンテが舌打ちした。思ったより先客が多かった。平穏な昼下がり、この日は血気盛んな魔界の戦士達の大半が、午睡より剣を取って斬り合うことを選んだらしい。血の沼に沈み、物言わぬ屍になっている者もちらほらと見受けられた。日常茶飯事である。
「まあいい。何人いようと雑魚だ」
ラサンテは長剣を引き抜いて乱戦の中へと歩いてゆく。レセーンも続いた。
「通せ馬鹿者。開けろ開けろ、戯け」
ラサンテは悪態をつきながら、ぶつかってきた者を突き飛ばし、身を掠めてゆく剣を打ち返しながら進んでゆく。不思議なことに、これほど戦いに熱中している戦士たちも彼に気付くと道を開けた。
剣聖ラサンテ。
あちこちで交わされるその囁きには、畏怖や羨望、憧憬、嫌悪、それぞれが抱く様々な感情が表れている。だが彼は大衆の毀誉褒貶など気にも留めない。これまで、挑んで来る者を尽く捩じ伏せ、実力を確実に証明してきたからである。今となっては挑戦者も少ない。誰が何と言おうとラサンテの剣聖の座は揺るぎなく、彼の君臨が気に入らぬ者も陰で嫉むことしかできなかった。
「者共、殊勝な心掛けは褒めてやるがそこを退け」
決して大音声ではないが、彼の声は高圧的によく響いた。剣士達を追い散らし、広間の中心に幾らかの場所を作る。
「退がっていろ」
先程よりも更に圧力の増した声で言い、剣帯を外す。ラサンテの纏う気が徐々に高まり、張り詰めてゆくのが分かる。こうなると最早、思い上がった若造だと彼を貶すことは誰にもできなかった。それは本物の、魔界に冠たる戦士の覇気であった。
レセーンも静かに剣を抜き放つ。誰もが一歩後退ってしまうような強烈な気魄にも揺るがず、真っ向から受け止めて対峙する。彼とて、潔くラサンテに叩きのめされるために来ている訳ではないのだ。
いつの間にか痛いほどの沈黙が広間を支配していた。皆が剣を下ろし、息を凝らして戦いが始まるのを待っている。類い稀なる才能を持ったこの兄弟が剣を交えるのを。
向かい合った両者は芯の通った美しい礼をした。
深呼吸するレセーン。神経を研ぎ澄まして剣を握り直し、斜に構える。ラサンテの剣も、兄にぴたりと狙いを定めて静止する。
今、両者の瞳に点るは、静かなる戦意の炎。
本物の果し合いも斯くやと思われる凄まじい殺気が陽炎のように揺らめいている。引き絞られた弓弦のように緊張は高まってゆく。
極限の均衡を破るのは、果たしてどちらか──
膨れ上がった気が遂に爆発した。
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