#9 身を投げ入れる

 身体をあちら側の岸へ向けて自ら投げ入れてみようかなと、まさに彼は助走をつけている。トントントン、と硬い靴底がグレーの岩々に調子良く当たり快音を鳴らす。ピュッ。想定よりも身軽なので驚いた。ずうっと空気の中を、まるでの水の中のような抵抗感で飛んでいく。実際にこの光景が緩い時間の中で見られた、ということではなくて、とても一般的な速度で飛んでいっていたのだろうけど、しかし、単純に言えばスローモーションに見えた、そして彼は笑顔だった。

 私はこの時を楽しみに待っていた。誰が止めようと、この快感を私は求めていた。誰も知らない世界に“先”にいくのだ、私は。君よりもあなたよりも先にいくのだ、私は。緊張による汗腺の異常は私をより昂らせる。脂っ気のない純粋な汗が私から逃げ出す。恐れおののく。スッと、スッと行くぞ。ああ、こんな景色か。こんな景色なのか。水中に涙が流れたことに気づく者はいなかった。空気中に飛び散る涙は美しい乱反射を、最後にこちら岸に残していった。

 いつもはこんな助走をつけないものだよ、今日はなんて日だ。アイタタ、焦らなくたっていいさ、ただの向こう岸さ、何をそんなに焦るのさ。よぉく見てごらんよ、私とあちらの岸は同じ岩盤でできているのだよ? 見てわからぬかね、といってもね、仕方がないわけだよね、我々岩々の次元は君よっりイッコ高次元。仕方がないわけだよね。誰が悲しもうと、誰が笑顔に見えようと、こちら岸とあちら岸は繋がっているのさ、君が見る景色は違うんだろうがね、繋がっているのさ。しかしなんなのだろうね、この川は、私にもわからない。この川が何かはわからないよ。

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