第33話

 靴の裏から振動が伝わってくる。

 水をかく音が聞こえて、私は顔を上げた。


 雲一つない青空に、鈍色の海。ちぐはぐな色の組み合わせが視界に広がっていて、私は少し目が疲れるのを感じた。


「海だね」

「……うん」


 私の隣に立つ雪羽は、ぼんやりと海を眺めている。

 あまりこの寒い時期にクルージングなんてするものじゃないと思うけれど、それが雪羽の望みなら断れない。


 私は冷たい潮風に体を震わせながら、遠い港に目を向けた。


「言うこと聞くって言ったけど、こんなことでよかったの?」

「いい。今日はそういう気分だったから」


 寒い時に船に乗って海を眺めたくなるのって、どういう気分の時なんだろう。


 雪羽に目を向けてみるけれど、彼女は相変わらず無表情だから何もわからない。


 でも、こんな時期なのに船に乗っている人はそれなりにいる。皆楽しそうに海だとか港だとかの写真を撮っているけれど、私は寒すぎてそれどころではなかった。


 朝は腕を広げて私を迎えてくれたけれど、今は流石に駄目だよな、と思う。

 雪羽は海を見るばかりで私を見ようとしない。


 それが何ってわけじゃない。けれど、少し寂しい気がするのも確かで。


 せめて手だけでも握れないかと思って彼女の指先に触れようとするけれど、怖くなってやめた。


 最近は雪羽から手を繋ぎにきてくれるから、自分から繋ごうとするのが下手になったのかもしれない。


 触られる前に逃げられるのと、触った後に拒否されるのは、ダメージ量が違う。

 後者の方がずっと痛くて、辛いと思う。


「穂波は、どこの大学行くとかもう決めてる?」


 不意に、雪羽が小さな声で言う。

 その声は、海より澄んでいる。


「特には決めてないかな。雪羽は?」

「私は決めてる」

「どこ?」

「えっと……」


 雪羽が目指しているのは、都内の有名な私立校らしい。私でも目指せるくらいの学校だけど、一緒に行こうね、なんて言ったら嫌がられるだろうか。


 私のキャラなら許されるかもしれないけれど、少し怖くなったから言わない。


 会話が止まると、途端に寄る方を失ったかのような不安が兆す。

 私は友達として雪羽とずっと一緒にいられればそれでいいと思ってきた。


 でも、これから先ずっと一緒にいられるかなんてわからない。同じ学校でも、クラスが違うだけで隔たりを感じるのだ。


 なら、もし。

 もしも違う学校に通うことになったら。


 雪羽と会う機会も減って、手を繋ぐどころか目を合わせることもなくなって。それで、そのまま自然消滅なんてことになりかねないのではないか。


 高校の親友が、彼女にとってどれくらいの存在なのかわからない。

 大学で親友ができたとしたら、私と雪羽の関係はどうなるんだろう。


 雪羽は卒業しても、私と一緒に遊んでくれるんだろうか。

 高校を卒業した後のことなんて、考えていなかったけれど。


 私たちの関係は意外と脆いのかもしれないと、今になって思う。


「……もう一年くらいで、卒業なんだよね」

「……そうだね」


 普通の私には、多くの元友達がいる。

 私は友達が元友達になっていくのを、仕方がないものとして受け入れてきた。


 でも、雪羽が元友達になることは、受け入れられそうにない。

 雪羽と離れる日が来れば、自然とこの気持ちも忘れていくのかもしれない。あれはいい思い出だったなんて、振り返るようになるのかもしれない。


 だけど、それでいいとは思えない。

 雪羽とはずっと一緒にいたい。


 疎遠になって、元友達になって、忘れていって。そんなの耐えられるはずがない。


 自然消滅なんてさせたくない。いい思い出なんていらない。

 私は、雪羽の恋人になりたい。告白したら今の関係が崩れるとしても、振られて傷つくとしても。


 時間が私たちの関係を薄れさせていくのを、黙って見ているなんて嫌だ。

 だって。

 だって私は。


「穂波?」

「好き」

「……え?」

「海がね」

「そう、なんだ」


 どうしようもなく、雪羽のことが好きだ。


 ただ何気ない時間を一緒に過ごして、手を繋いで、抱きしめ合って。昨日も一昨日も繰り返してきた単純で普通の日々の積み重ねが、そのまま雪羽への想いになっている。


 強固な結びつきがなくても、私たちの関係性に何ら特別なものがなくても。それでも私は雪羽のことが好きで、大好きで、いつまでも一緒にいられればいいと思っている。


 雪羽と二人でいられたという思い出だけで生きていくなんて、無理だと思う。


 雪羽を思い出にしたくない。

 もっと数えきれないくらいの時間を雪羽と一緒に過ごして、過去のことなんて思い出す暇がないくらい毎日一緒にいたい。


 恋は私をわがままにしている。

 嫌われるよりも、今の幸せが変わってしまうことよりも。

 彼女が隣にいない日常に慣れてしまうことの方が、嫌だ。


「雪羽。寒いって言ったら、ハグしてくれる?」

「しないよ。こんなところでしたら、変じゃん」

「じゃあ陸に上がってからなら?」

「しない。観光地だから」

「……じゃあ、学校だったら」

「周りに誰もいなくて、穂波が本当に寒くてどうしようもない時なら」

「そっか。雪羽は優しいねぇ」


 雪羽は変わらないようで、変わっている。

 前の雪羽は手なんて滅多に繋いでくれなかったし、自分からハグしてくれることもなかった。こっちからしようとしても逃げてしまうことが多かったから、今の状況は夢のようだった。


 彼女が私を愛してくれるとは、思っていない。

 ただ私は、今のままでは嫌なのだ。


 友達は、弱い。

 友達のままじゃ、雪羽と一緒にいられない。


 恋人という繋がりがあれば、雪羽は私のことを忘れないはずだ。

 だから私は、キスしたいとかセックスしたいとかそういうのはわからないけれど、とにかく雪羽と恋人になりたいと思っている。


「ねえ、雪羽。中入らない? ブランケット貸し出してるらしいし」

「……いいよ」


 雪羽は当然のように手を差し出してくる。

 手を繋ぐのは、いいんだ。

 そう思いながらも、私は何も言わずに彼女の手を握った。


 小さな船だから、席はほとんど埋まっている。私は一枚のブランケットをとって、空いている席に座った。


 ブランケットはまだ残っている。

 けれど雪羽はそれを取らずに、私の隣に座った。


 具体的にこうしてほしいとは言われていないけれど、私はブランケットを彼女と一緒に被った。


「こういうの、普通膝にかけない?」

「周りの人、結構こうやってるよ」

「……寒いから、仕方ないのかな」

「うん。寒いから、仕方ない」


 一枚のブランケットで暖をとっている私たちは、周りからどう見られているのだろう。


 わからなかったが、雪羽が何も言わず手を握って、そのまま肩を寄せてくるから、私は何も考えないことにした。


 今の雪羽の友達事情を、私は知らない。

 彼女が友達といつもどんなふうに接しているかとか、どれくらいスキンシップをとっているか、とか。


 気にならないといえば嘘になる。

 でも雪羽の親友として私が分類されていて、こうして彼女から触りにきてくれているのは事実だから、それでいいと思う。


 振られるにしても、恋人になるにしても。

 友達として、親友として彼女と触れ合えるのはきっと、今だけだから。

 私は今この時を大事にしようと思った。

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