好きより、もっと②
今日より緊張した日は、他にないと思う。
私は自分の部屋とリビングを行ったり来たりしていた。
窓の外では激しい雷雨が降り注いでいる。
廊下には水の音が響いているけれど、それは雷雨のためではない。
風呂場で穂波がシャワーを浴びているから、その音だ。
その音を聞いているだけで落ち着かなくなって家の中をうろうろしている私は、多分どうかしているんだと思う。
しかし、自分の家で恋している相手がシャワーを浴びているという状況で、平静を保てる人間などいるだろうか。
少なくとも私は無理だ。
穂波に向けている感情が行き過ぎたものだということくらい、自分でもわかっている。
別に裸が見たいわけじゃない。
いや、見たいか見たくないかで言ったら見たいけれど、強引に見るものでもないし、想像するようなものでもない。
だが——。
「雪羽ー?」
脱衣所の方から声がする。
私があれこれ考えている間に、風呂から出てきたらしい。
私は慌てて脱衣所の前まで歩いた。
閉ざされた扉の先には、いつもと違う穂波の姿がある。そう思うと落ち着かない。人の家で脱ぐのは普通靴までで、服を脱ぐことなんてないのだ。
前に穂波の家に遊びに行った時はここまでそわそわしていなかったのに。
やっぱり自分の日常の最も深い場所に彼女がいるという事実が、私の心を酷く乱しているのだろう。
「ドライヤーってどこにあるの?」
「あ、ごめん。私がさっき乾かすときに持ってっちゃった。……開けていい?」
「いいよー」
脱衣所の扉を開けると、当たり前だけど穂波の姿があった。
私が貸したパジャマを着た穂波は、お風呂上がりだから血色がいい。
上気したピンクの頬。濡れた髪は艶やかで、見ているとドキッとさせられる。同性のこんな姿なんて修学旅行やら銭湯やらで何度も見てきているのに。
穂波だけは特別だ。
男とか女とか関係なく、私は穂波の全てを好ましく思っている。
彼女の感情が全て欲しい。
私が見たことのない場所がないくらいに、彼女の全身を見たい。
結局私は彼女の全部が知りたくて、全部が欲しいのだ。
自分の全てを受け取ってほしいとも思っている。
……だいぶ重いし、キモいんだろうけど。
「お風呂まで使わせてもらっちゃってよかったの? そんなに濡れてなかったのに」
「いいよ。ちょっとでも濡れてたら気持ち悪いだろうし、風邪引くかもだから」
「そっか。雪羽は優しい子だねぇ」
「子供扱いしてる?」
「してないしてない。とりあえずちゃちゃっと乾かしちゃうね」
彼女は手を差し出してくる。
ドライヤーを貸してってことなんだろうけれど。
私はその手にドライヤーを乗せず、自分の手を乗せた。
「雪羽?」
「私が乾かしてあげる」
「え」
彼女の手を引いて、自分の部屋に戻る。
私は穂波をクッションの上に座らせて、コンセントにドライヤーを繋いだ。
穂波の強引さが、私にも少し移っているのかもしれない。私はこういうキャラではないのだが、最近の私はなんの気なしに彼女に触れられるようになっている。
というのは、嘘だけど。
感情を抑えられるようになったとはいえ、彼女に触れるとドキドキするのは確かだ。
「今日はすごいサービスしてくれるね」
「ホストだから」
「じゃあ、ゲストらしく全部お任せしちゃおうかな」
「うん」
穂波を家に呼んだのは、ちょうどこの近くで遊んでいる最中に雨が降り始めたからだ。
雨が止むまでここにいなよ。そう言った私に、穂波は頷いてくれた。
私と彼女がシャワーを浴びている間に、雨脚はどんどん強くなっている。まるで、穂波を帰したくないという私の気持ちが反映されているかのように。
雨がずっと降り続けたら、穂波もここにずっといてくれるんだろうか。
流石に無理だって、わかってはいるけれど。
「いくよ」
私はドライヤーのスイッチを上げた。
あまり髪にベタベタ触る必要はないのだけど、私はなんとなく触れたくなって、彼女の髪に触れる。
彼女の髪は私よりもさらさらしている。
普段手入れには力を入れているらしいし、すごいと思う。
乾かしていると、シャンプーの匂いがした。嗅ぎ慣れた家のシャンプーの匂いのはずだけど、穂波の髪はもっといい匂いな気がする。
前に香水の匂いを嗅ぎに行った時みたいに、鼻を近づけたりはしない。
考えてみればあれは穂波が相手だったからよかったが、他の人にやったら引かれるやつだ。
いや。意外とあれくらいのスキンシップなら、許されるかもだけど。
いやいや。穂波がやったら可愛いだろうけど、私がやっても可愛くないし。
……可愛いから許されるかっていうと、どうなんだろう。穂波がやることなら、全部可愛くて許してしまうそうだ。
好きとか愛してるとか、ああいうおふざけは困るけど。
「雪羽って意外と繊細な感じで乾かしてくれるね」
「何、意外って」
「だって包装紙は乱暴に破いてたじゃん」
「ものと人は違うから」
「私のことちゃんと人扱いしてくれてるんだねー。偉い偉い」
「……もの扱いされたいの?」
「それはそれでちょっと楽しいかもね」
穂波をもの扱いなんて、するわけない。
私はそのままくだらない会話をしながら、彼女の髪を乾かし続けた。
名残惜しいが、髪が乾いているのに髪にずっと触っているのはおかしい。だから私は、ドライヤーのスイッチを下げるのと同時に髪から手を離した。
「終わった?」
「うん、終わり」
「そっか。私の髪の感触はどうだった? 色々頑張って手入れしてるから、さらさらでしょ」
「まあ、そうだね」
「もっと触ってもいいんだよー? ほれほれ」
穂波は私の方を向いて立ち上がったかと思えば、頭をぐりぐり押し付けてくる。
ここではい触らせてくださいなんて言うのは、駄目だろう。穂波にどういうキャラだと思われているかはわからないけれど、少なくともここではいと言うようなキャラだとは思われていない。
……はずだ。
本当は、もっと触りたい。
でも多分、やめどころがわからなくなってしまうから。
だから私は、彼女から離れようとした。
「触らない。私、そこまでベタベタするつもりないから」
「待ってよ雪羽ー。行かないでー」
彼女は私の背中に腕を回してくる。
いつもなら多分避けなかっただろうけれど、今抱きつかれたらまずい気がしたから、咄嗟に体を引こうとする。
でも心のどこかがそれを止めたのか、私は中途半端に体を引いて、穂波の手に捕まった。
変に動いたせいでバランスを崩した私は、そのまま尻餅をつく。
穂波はそれに引っ張られて、私の上に覆い被さってきた。
すぐ近くまで、穂波の顔が迫った。
彼女の柔らかな髪が私の頬にかかって、くすぐったくなった。視線がぶつかって、慌てて目を逸らしたら、唇が見えた。
口紅を塗っていないけれど、血行が良くなっているためか、彼女の唇は綺麗な赤だ。
キスしたいと思うのは彼女の唇が綺麗なため、だけではない。
でも私は。
キスするよりも、されることを望んでいるのだと思う。彼女が好きって言ってキスしてくれたら。それに勝る幸せなんてない。
それが無理なことくらい、わかっている。
それでもして欲しいって思ってしまうのが、恋の怖いところだと思う。
「穂波、どいて」
穂波は動かない。視線が私に突き刺さっているのは、わかる。
キスされる、とは思わないけれど。
この前映画館に行った時、彼女の頬にキスしたのを思い出す。あの時の私はどうかしていた。眠っている彼女を見て、つい魔が差したのだ。
キスしてすぐに彼女が起きたから焦ったが、バレてはいないと思う。
しかし、あの時キスしていることがバレて、好きって悟られて。今の関係が崩れることを、私は心のどこかで望んでいたのかもしれない。
好きって言う勇気がないなら、向こうから悟られて、アクションを起こされた方が。
……いや。ただ気持ち悪いと思われて、終わりかもしれないけれど。
一番の友達が恋人に変わることは、あるのだろうか。
好きになって。
愛して。
なんて、言えたら。
「雪羽」
彼女は私の名前を呼んで、顔を近づけてくる。
え、ちょっと。
なになになんなの。待って、まさか、穂波も?
混乱していると、穂波の顔は私の顔の横を通り過ぎて、首筋にやってくる。
すん、と鼻が音を鳴らした。
「この前のお返し。雪羽も、いい匂いするね」
キスなんてされるわけがない。
わかっていた。
わかっていたけれど、期待もしていた。
期待していたけれど、穂波がそんなことしてくるわけないってわかっていた。
でも、でも、でも。
思わせぶりなことしないでよ。
穂波の、ばか。
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