only you③

「はい、飴どーぞ」

「ん、ありがと」


 穂波はいつも飴をバッグに入れている。ミルク時の飴は穂波っぽい感じがする。甘くて優しいっていうか、なんていうか。


 二人してホームのベンチに座って飴を舐める。

 からんころんと、飴が転がる音がした。


 教室の静けさを忘れそうなほど、駅のホームは騒がしい。忙しなく歩く人々の足音とか、電車が走る音とかがひっきりなしに耳を打って、少し落ち着かない。


 確かにあの静かな時間は、贅沢だった。

 世界は音や忙しさで溢れていて、存外に心を落ち着かせるのは難しいものなのかもしれない。


 心を静かにして、また穂波と二人でいたい。

 そう思うけれど、雨の中二人きりでいられたあの教室には、もう戻れない。


 大切なものは失って初めて気づくとは言うけれど、その通りなのかも。

 こんなことならもっと長く雨が降っていればよかったのに、と思う。


「お尻、冷たい」

「ごめん。私がバランス崩したせいで」

「ま、しょうがないよ。床が濡れてたのが一番悪いってことで」


 穂波はベンチにハンカチを敷いて、その上に座っている。


「でも、お尻が濡れたまま帰るのもやだし、乾くまでここにいる。雪羽は?」

「私のせいだし、私もいる」

「そっか。じゃあ、どうしよっか。二人で本でも読む?」

「うーん……」


 あの静けさの中なら、本を読んでも楽しかったかもしれない。しかし、こんな喧騒の中で読んでもなぁ、と思う。


 今は穂波と一緒にいられるだけでいい。

 けれど、二人して無言のまま時を過ごすのも、おかしい。


「そうだ。手、貸して?」

「なんか、最近いつも手の貸し借りしてない?」

「いいからいいから」

「……いいけど」


 右手を差し出すと、穂波が両手で握ってくる。

 心臓が跳ねた。


 皺をなぞるようにして、彼女が私の掌を指で触る。くすぐったいような、恥ずかしいような感じがして、腰が落ち着かない。


 何度かお尻の位置を変えてみるけれど、どうにもしっくりこない。

 穂波は一体、何をしているのだろう。


「穂波?」

「手相見たげようと思って」

「わかるの?」

「あんまり。スマホで調べる」


 完全に思いつきだ。

 しかし、二人で一緒に座って、こうして触れ合えている。それだけで幸せだと思う。


 穂波はスマホの画面を見ながら、生命線の濃さがどうだの、知能線がどうだのと言ってくる。いまいち要領を得ないが、彼女が楽しんでいるのはわかる。


 いつも以上にニコニコ笑って私の手を触ってくるものだから、占いではなく私に触ること自体が楽しいのかと勘違いしてしまいそうになる。


 私は表情をほとんど動かさないけれど、楽しいと思っている。触れるのも、触れられるのも好きだ。


 ただ、感情の制御がうまくできそうにないから、普段はあんまりベタベタしてほしくないって思っているだけで。


 今触られても大丈夫なのは、さっき穂波を抱きしめたせいで感情がバグっているからかもしれない。


「あ、結婚線一本だ」

「それは、いいことなの?」

「んとねー、結婚線が一本の人は生涯一人だけを愛するんだって」

「……穂波は?」

「私? 私は……ないね。結婚線がない人は結婚願望とかない人なんだって」

「そうなんだ」


 占いなんて信じているわけではないが、少し気になる。

 本当に、穂波は結婚願望がないんだろうか。


「……穂波って、結婚したいとかないの?」

「ないかな。私は多分、そういうタイプじゃないしね」


 穂波は自分をどういうタイプだと思っているんだろう。

 私から見れば、穂波ほど結婚に向いている人はいないと思う。彼女と結婚する人は、きっと幸せだ。


 多分、毎日楽しく過ごせると思う。

 穂波がもしねぼすけでも、料理が下手でも、一緒に暮らす中で何かしらの欠点が見えたとしても。私が穂波のことを嫌いになることはないだろう。


 ……いや、待て。

 途中から私が穂波と一緒に暮らす話になっている。


 そもそも私たちは結婚どころか、恋人にすらなれていないのだ。話はまずそれからで……いや、だから。


 感情が暴走している。これは、彼女を抱きしめてしまったせいだろう。心がどうにもぐるぐるしていて、落ち着きを取り戻せそうになかった。


 穂波と一緒に暮らして、毎日挨拶にハグして、いってらっしゃいのキスをして、とか。


 はぁ。

 馬鹿みたいだ。


「穂波と結婚したら、毎日楽しいと思うけど」


 だから、待ってって。

 私は何を言っているんだ。


「そう? じゃ、結婚しちゃう?」

「は?」

「ごめん、調子に乗った。そもそも女同士じゃ結婚できないしね」

「……」


 最近穂波は、冗談で好きだの愛しているだの言わなくなった。しかし、心臓に悪い冗談を言うのはもはや癖らしい。


 いっそここで穂波のことが好きだと明かしてしまうか。

 そうすれば、この苛立ちも少しは晴れるだろう。


 その代わりに、何よりも大切な穂波と関係が終わってしまうかもしれない。だから言わないけれど。


「雪羽は好きな人、できた?」

「前に聞かれてから四ヶ月くらいしか経ってないし。そんな急に、人のこと好きになるなんて無理だよ」

「そういうもの?」

「……何。穂波は好きな人、できたの?」

「ううん、いない。これから先も、きっと。誰のことも好きになれない」

「何それ」


 穂波はにこりと笑って言った。

 その笑みは、あまりにもいつもと同じすぎる笑みで、私は何も言うことができなかった。


 どういうことなんだろう。これから先も、誰のことも好きになれないって。


 失恋でもしたのか、それとも。

 私のことを好きになってほしい。勝手だけれど、そう思ってしまう。


「さあ。まあ今は、友達と楽しく遊べればそれでいいってことで」

「そうなんだ」

「うん。ああ、でも。雪羽にもし好きな人ができたらさ。応援させてよ。力になるから」


 穂波は笑っている。

 いつもと変わらない笑みで、まるで私が彼女のことを好きになるなんてありえない、みたいな顔をしている。


 好きなのに。

 他のものなんて全部捨ててもいいってくらい、穂波のことが好きなのに。


 穂波はそれに気づかない。私自身、彼女に好きって言うことができない。どうしようもないくらい好きだからこそ、今の心地良い関係を崩したくない。


 臆病な私はいつもいつも心を揺れ動かして、苦しんで、苛立っている。悪いのは私で、穂波は何も悪くないのに。

 私はぎゅっと、強く彼女の手を握った。


「応援なんて、いらない」

「そっか。じゃあ——」

「私も今は、友達と楽しく遊べればそれでいい。だから遊ぼう、穂波」

「……! ふふ、そうだね。遊ぼっか。今日はどこ行く?」

「適当に電車乗って、適当に降りる」

「いいね。徒然なるままに、だね」

「それ、意味ちょっと違くない?」

「細かいことは言いっこなしで。お尻も乾いてきたし、行こ!」

「……うん」


 穂波が立ち上がるのに合わせて、私も立ち上がる。

 私の気持ちを彼女にちゃんと伝えるには、まだ勇気も何もかも足りていないけれど。


 やっぱり、いつか好きと言いたい。

 自然にこの関係が消滅するまで思いを抑えるとか、しまいこむとか。もうできそうにない。どうにもならないくらい穂波のことが好きで、好きで、好きだ。


 だから、穂波。

 これから先私以外を好きにならないで。


 誰のことも好きになれないなんて言わないで、私のことを好きになって。

 私は心の中で、そう願った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る