第19話

 夏休みは課題を前半に終わらせると、開放的な気分になってくる。

 ただでさえ夏は人を開放的にさせるのだ。私はその勢いのままに雪羽を遊びに誘っていた。


 彼女が私の家まで迎えに来るというので、私はその時を今か今かと待っていた。


 右へ左へ部屋をうろうろして、前髪を何度も整えて。

 今日の私は完璧……とまではいかない気がする。メイクもバッチリだし、服だって昨日からちゃんと選んでおいて、何度も確認した。


 でも友達とのお出かけにしては気合入れすぎかな、とか、雪羽が気に入ってくれるかな、とか色んなことを考えてしまう。


 こんなことなら日々のお出かけで服屋に行って、彼女の好みを把握しておくべきだった。


 いや、でも、自分が着る服の好みと、人の着る服の好みは違う。私には私に似合う服装があって……ああ、もう。


 その時、チャイムが鳴る。

 私はバタバタと玄関に向かった。


「何、彼氏?」


 廊下でお姉ちゃんに話しかけられる。大学生のお姉ちゃんは連日飲み歩いていて、顔がむくんでいる。

 私がこんな顔で雪羽に会ったら、だらしないって思われるかも。


「彼氏じゃなくて、友達。お姉ちゃんも彼氏作ってお出かけでもしたら?」

「んー、私はパス。今は酒が彼氏だから」

「意味わかんないし。顔ぱんぱんになるまで飲むのやめなよ。しかも、夜吐いてたでしょ」

「吐くまで飲まないと飲んだ気がしなくてねー」

「……早死にするよ」

「穂波も大人になったらわかるって」

「わかりたくないんだけど」

「まー私のことはいいとして、早く出てあげなよ。お友達、待ってるんじゃない?」


 そうだ。

 私から遊びに誘ったのだから、彼女を待たせるわけにはいかない。私は早足で玄関まで歩いた。


「穂波ー。がっつきすぎるなよー」

「だから、友達だって言ってるでしょ!」

「はいはい。頑張れ、恋する乙女ー」


 お姉ちゃんは全く私の話を聞いてない。

 そんなにわかりやすいんだろうか、私。

 いや、でも、うーん。


 雪羽には多分私の気持ちは伝わっていないだろうから大丈夫だろうけれど。


「おはよ、雪羽」

「うん、おはよう穂波」


 扉を開けると、当たり前だけど雪羽がいた。

 今日の雪羽はいつもより可愛い、気がする。


 紺のフレアスカートに、白いブラウス。相変わらずメイクはしていないみたいだけど、いつもよりちょっと気合が入った夏コーデって感じで可愛いと思う。


 雪羽とは何度も休日に遊んできたけれど、今日は一番可愛いような気がする。

 なんだろう。何か、いいことがあったんだろうか。


「今日は一段と可愛いね、雪羽。お人形さんみたい」

「……穂波こそ、可愛い」


 いつもと違うコーデに、いつもと同じ抑揚のない声。でも、彼女が可愛いって言ってくれただけで私の心はすぐふわふわしてしまって、メイクも洋服選びも頑張った甲斐があったって気持ちになる。


 単純だって、自分でも思うけれど。

 好きな人に褒められるのが一番のご褒美だ。これだけで今日一日を終えていいって思ってしまうくらいに。


「えー? どの辺が? どこが可愛いか教えてみて?」

「……全部」


 面倒臭そうに、彼女は言う。

 適当に言っているだけだって、わかっている。わかっているけれど、嬉しい。


 今の私は全身雪羽のために整えているみたいなものだ。彼女に可愛いと言ってもらうためだけに時間をかけているのだから、そう言ってもらえないと悲しい。


 私はにこりと笑って、彼女に抱きつこうとした。

 けれど、逃げられる。


 当たり前だけれど、ちょっと寂しい。可愛いと言ったついでに抱きしめられてくれてもいいのに、なんて。


「暑いから駄目」

「涼しいところだったらいいの?」

「……それも、駄目」

「うえー。けちだ」


 ふと振り返ると、お姉ちゃんがニヤニヤしながら私を見ていた。


 好きな人の前にいるところをお姉ちゃんに見られるのは面倒臭い。絶対にからかってくるし。


 私はそっと玄関の扉を閉めて、雪羽の肩を叩いた。


「とりあえず、行こ! 今日一日一緒に楽しもうねー」

「……うん」


 私たちはそのまま肩を並べて駅に向かった。

 真夏だから当然、ひどく暑い。辺りには陽炎が生じているし、歩いているだけで汗が滲む程度には暑かった。


 雪羽にみっともないところを見せるわけにはいかないから、今日はウォータープルーフのコスメを使っている。後で落とすのが面倒臭いとか、肌に負担がかかるとか。


 そんなのは雪羽の前で可愛くいることに比べればどうでもいいことだ。


 雪羽には、一番可愛い状態の私を見てほしい。可愛いの一言さえ彼女から引き出せれば、私は幸せなのだ。


「雪羽は夏休み始まってから何してた?」

「勉強と課題」

「私と同じだ。私たち、結構偉いね」

「そうかな。普通だと思うけど」

「普通! 私の一番嫌いな言葉だよそれ」

「なんで?」


 セミが鳴いている。みんみん、みんみん。

 彼らは必死に生きているから仕方がないんだけど、雪羽の声が聞こえづらいから勘弁してほしいと思う。


 雪羽の声はあまり大きくない。抑揚がないのも手伝って、騒がしいところでは聞き逃してしまうこともある。


 彼女の声は透き通っていて綺麗なんだけど、私の耳の方が悪いのかもしれない。


 一言一句も聞き逃したくないから、私はちょっとだけ彼女の方に近づいた。


 私の接近に気づいているのか、いないのか。

 彼女は私から距離を離そうとはしない。

 それだけのことが、嬉しい。


「だって私普通だもん」

「……どこが?」

「顔も成績も性格も全部。中間も中間だから、一番になれたことってないんだよね。だから一番の友達ーとか、一番頭いいーとか、憧れちゃって」


 普通じゃない自分になれたらなぁ、なんてことはいつだって思っている。

 普通じゃない、私なら。

 もしかしたら今頃雪羽とは恋人同士だったかもしれない。

 でも、無理かな。


 雪羽は私のことを親友だと思ってくれているみたいだけど、恋人にはなってくれないだろう。


 好きって言ったら困るくらいだし、そういう意味で私を好きになってくれることなんてないんだろうと思う。


 最初から諦めている。

 恋人になるなんて、そんなの。


 この前海に行った時、私は雪羽とずっと友達でいられればいいと心から思った。思ったん、だけど。


 でもやっぱり、ちょっとだけ。

 ほんのちょっとだけ、恋人になりたいのもまた確かで。

 意志が弱いというか、なんというか。


「穂波なら、なれるよ」

「一番に?」

「うん」

「えー。具体的になんの一番? 一番普通とか?」

「……それは、言えないけど」

「え、何それやだ。わかんないじゃなくて言えないなの?」

「うん、言えない。言ったらどうせ、困るだろうし」


 雪羽は小さな声で言った。

 セミの声にかき消されそうなくらいに。

 私が困ることで、一番?


 本当に、なんだろう。

 うーん、もしかして。


「クラスで一番地味……?」

「私、穂波のクラスに誰がいるとか知らないよ」

「うーん、じゃあなんの一番だろう」

「考えなくていいよ。失言だった、ほんとに。ほら、穂波」


 雪羽は私に手を差し出してくる。最近の雪羽は、こうやって私によく手を差し出してくれるようになった。


 スキンシップが少し、嫌じゃなくなったのかもしれない。

 この前も事故とはいえ私に抱きついて、そのまま離れなかったし。まああれは、単にいきなりのことだったから思考が止まっていただけだろうけれど。


 でも、どんな形でも好きな人との触れ合いは嬉しい。

 指先が触れるだけで心が熱くなるのに、抱きしめたりなんてしたら、沸騰してしまう。それでも触れ合いたいのだから、仕方ないんだけど。


 でも、別にそれだけがしたいってわけじゃない。


 見つめ合うだけでいい。くだらない会話をするだけでも、いい。毎日顔を合わせて、おはようから一日を始められれば幸せだ。

 二人でいられなくなるのが一番怖い。


「暑いのはいいの?」

「手くらいなら。穂波が迷子になることに比べたら、大丈夫」

「私は子供なの?」

「前、私のこと子供扱いしたから。お返し」

「意外と根に持つね」


 手を繋げるなら、理由なんてなんでもいいと思う。

 なんで好きな人に触れるだけでこんなに幸せなんだろう。

 幸せで、あったかくて、ふわふわして。

 ちょっとだけ、胸が苦しくて。


 今が一番幸せなのに、恋人になれないって事実が少し。一ミリくらい、私の胸を突き刺している。


「先に言ったのは、穂波だから。……これから人が多いところでは、手繋ごうか」

「吐いた言葉は飲み込めないよ?」

「仕返しだから」

「お返しと仕返しって、何が違うの?」

「……」

「私は別に、いいよ。雪羽と手繋ぐの好きだしね」

「楽しいことじゃないと思う」

「前言撤回はなしね」


 私は手を少し浮かせて、腕を絡ませようとした。

 その瞬間、雪羽は私と少し距離を離した。


「腕は駄目だから」

「ぶーぶー。腕も手も同じようなものなのに」

「駄目。主導権は私にあるから、私の言うこと聞いて」

「……わかったけど」


 手を繋げるのなら、贅沢は言わない。

 雪羽を子供扱いしたのなんて、随分前な気がするけれど。やっぱり雪羽は意外と根に持つタイプで、ずっと仕返しをするタイミングを探していたのだろうか。


 それでもいいと思う。

 どんな形にせよ、彼女から手を繋ごうって提案してくれたことが重要だ。

 その事実が私の心を、もっと、ずっと浮かび上がらせた。

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