チョコレート、のち、ほなみ③

「いやー、よく来たね雪羽ちゃん! 穂波から色々話は聞いてるよ!」


 夏川のお母さんはカラッとした笑みを浮かべて言った。


 家に呼ばれるということは、一緒に食卓を囲むってことだ。そういう経験が乏しい私は友達の両親と一緒に夕飯を食べるという作業にやや疲れを感じていた。


 見れば、夏川は少し困った顔をしている。

 目が合うと彼女は苦笑して、申し訳なさそうに手を合わせてくる。


「穂波、学校で雪羽ちゃんに迷惑かけてない?」

「いえ。むしろ夏川には私の方が……」

「雪羽ちゃん、穂波のこと夏川って呼んでるの?」

「は、はい」

「うーん……夏川って呼び方、職場を思い出して鬱になるから名前で呼ばない? あ、私のことはお母さんでいいよ。ね、お父さん」

「うん、そうだね」


 夏川の家はいつもこんな感じなんだろうか。

 なんというか、賑やかだ。私も家ではそれなりに両親と喋るけれど、夕飯の時は両親はテレビに夢中になっているから、あまり学校の話をしない。


 いい歳してクイズ番組に本気で熱を上げているのは、どうかと思う。


 夏川も学校ではそれなりに元気な方だけれど、ここにいると霞んで見える。意外に夏川は穏やかというか、静かめなのかもしれない。


「ちょっと、お母さん。雪羽をあんまり困らせないでよ。雪羽。別に無理して呼ばなくても……」

「穂波」


 意を決して、彼女の名前を呼ぶ。

 彼女は少し目絵を丸くしてから、困ったように笑った。


「……なんか、照れるね。雪羽に名前呼ばれるのって」


 そういうことを言われると、私も照れる。

 私は基本、友達のことを名前ではなく苗字で呼ぶ。なんとなく名前で呼ぶのが恥ずかしくて、どれだけ仲良くなっても苗字で呼び続けているのだ。


 彼女が私のことを秋空ではなく雪羽と呼ぶようになったタイミングで、本当は私も彼女のことを穂波と呼びたかった。


 しかし、長年の積み重ねとは怖いもので、どうしても恥ずかしくて名前を呼べなかったのだ。


 今は、彼女のお母さんから言われたからという理由をつけて、無理やり呼んだ。


 穂波という名前の響きは彼女によく似合っている。柔らかくて優しい感じで、可愛らしい。


「いいね。私のこともお母さんって呼んでみて」

「お母さん、いい加減にして。雪羽、もう行こう」

「ちょ、穂波」


 彼女は立ち上がって、私の手を引いてくる。まだ食べている途中だけれど、どうやら我慢の限界が来たらしい。


 友達の前で親と接するのは結構疲れるから、気持ちはわかる。

 しかし、力強いお母さんだと思う。

 私は夏川……穂波に手を引かれるままに、彼女の部屋まで歩く。


 穂波の部屋は、意外と質素だった。家具は全部木でできたもので揃えているらしく、想像していたより可愛いものは少ない。


 穂波はもっと、女の子って感じの部屋に住んでいると思っていた。

 しかし、穂波の部屋は当然穂波の匂いがして、それだけで落ち着かなくなる。


 普段この部屋で穂波は寝ているのだ。そう思うと、なんだか変な感じがする。


 人のプライベートな空間にはある種の神聖さというか、侵してはならない空気が感じられる。


 だが、だからこそ、その空間に踏み入った時に感じられるものがあって、それは私の心を乱し、平静を失わせるには十分すぎるものだった。


「ごめんね、うちのお母さん強引で」

「ううん。賑やかでいいと思う」

「うるさいだけだよ。……何か飲み物とってくる。適当に座ってて」


 穂波はそのまま、そそくさと部屋を出ていく。

 残された私は小さなテーブルの近くに置かれたクッションを一瞥してから、ベッドを見た。


 ベッドの上に敷かれた布団はちゃんと整えられている。この前チョコの包装を破かずに開けようとしていたところといい、意外に彼女は几帳面なのかもしれない。


 私はそっと彼女のベッドに腰をかけた。

 そうすると自然に枕が目に入る。

 少しだけなら。


 そう思って、枕をそっと持ち上げて、抱いてみる。


 穂波の匂いがした。部屋に染み付いているものよりもずっと濃い、甘い感じの匂い。

 人の枕の匂いを嗅ぐなんて、変態じみている。


 そう思うけれど、少しくらいなら大丈夫だと自分に言い聞かせた。


 枕を抱いていると、全身で穂波の匂いを感じられる。抱きしめているのは私なのに、抱きしめられているみたいな感じがした。


「大好き」


 小さな声で、呟いてみる。


 私の声は電話越しに聞いた彼女の好きという言葉と調子が似ているというな気もするし、そうでもないような気もする。


 彼女も私に恋してくれているのかも、なんて。

 そう期待するのは、流石に欲張りだ。私はそっと枕を元の位置に戻して、ベッドから降りた。


「ごめんごめん。お母さんに絡まれちゃって、遅くなっちゃった。はい、どうぞ」


 戻ってきた穂波はカップを私の方に置いてくる。

 ほんのり黄色がかった液体が、カップに満ちている。

 一口飲んでみると、蜂蜜レモンだとわかった。


 穂波はベッドを背にして座る私のすぐ横に座った。

 かまくらの時と違って、腕が触れ合うことはない。


 物足りないとは思うけれど、自分から触れにいくのは変だ。私は穂波みたいにスキンシップを取りにいくキャラじゃないし、何より。


 自分から触れてしまったら、そのままの勢いで好きとかそういう類の言葉を発してしまいそうだった。


「寒い季節は、あったかいものが美味しくなるよね」


 ぽつりと。

 穂波が言う。


「そうだね」

「今度、鍋でも食べに行こっか」

「二人で?」

「皆でも、二人でもいいけど。でもどうせ鍋をつつくなら、大勢いた方がいいよね」


 確かに、一般的にはそうかもしれない。

 しかし、私は一般論に逆らって、どうせなら二人で行きたいと思う。

 口には出せないけれど。


「穂波って、鍋好きなの?」

「……」

「穂波?」


 彼女はぼんやりと私を見つめてくる。瞼が今にも落ちそうになっているように見える。

 朝からかまくらなんて作ったから、疲れたのではないだろうか。


「もうお母さん、いないから。夏川って呼んでいいよ」

「なんで?」

「雪羽って、人のこと名前で呼ぶの苦手でしょ。無理しなくていいんだよ」

「……無理なんて、してない」

「ほんとに?」

「ほんと。だから、これからも穂波って呼ぶ」

「そっか。ちょっと、嬉しい」


 穂波の頭が段々と揺れ始める。

 コップを持ちながら船を漕ぐのは危ない。私は自分のカップを置いて、彼女に手を伸ばした。


 指が彼女の手に触れると、ぴくりと体が動いた。

 その動きが反射的なものなのか、嫌だという感情から生まれたものなのかはわからない。ただ私は、彼女の指をそっと解くようにしてカップを受け取って、テーブルに置いた。


 眠そうな瞳が私を見つめている。カップが彼女の手からなくなった今、その手に触れるための理由を用意できない。


 用意できないのに、私はそっと彼女の指先に触れた。

 その指先が小さな反応を見せることはなかった。受け入れてくれたのか、それとも。


 考えていると、手首を掴まれた。

 大して強くない力だ。振り解こうと思えば、すぐにでも振り解けるくらいに。それでも私は、抵抗せずに彼女に身を任せた。


「雪羽」


 名前を呼ばれた。

 その瞬間、手首を辿るように彼女が私に近づいてきて、そのまま抱きしめられた。


 呼吸が止まる。枕よりも強く彼女の匂いがして、体温と柔らかさを感じて。何が起こったのかわからないまま、顔を上げる。


 笑っていた。

 いつもよりもずっと穏やかで、眠たげで、でも楽しそうな笑み。

 なんなんだろう、この顔は。

 やめてほしい。呼吸どころか、心臓まで止まってしまいそうだから。


「雪羽は、ぽかぽかだ」


 背中に優しく手を添えられる。

 目が閉じた。

 穂波の体から力が抜けて、すうすうと寝息を立て始める。

 どうしようもなく、ドキドキする。


 穂波は眠くなると大胆になるのかもしれない。この前も涎を拭いて、なんて言ってきたし。


 誰にでもこういうこと、しているんだろうか。

 例えば友達とか、私は名前も覚えていないような男子とか。簡単に抱きついて、好きって言って、笑顔を向けて。


 なんて、考えたくもない。

 今は私が彼女のことを独り占めしているのだ。考える必要も、ないはず。


「安らかに眠っちゃって。私の身にもなってよ」


 そう言いつつ、彼女から離れることはできそうになかった。

 私だけにしてくれる行為じゃなくてもいい。偶然でもいい。


 ただ今は、彼女のことを感じていたかった。

 私はそっと彼女の背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめた。

 肩に頭を置くと、華奢な体をより強く感じられる。


 穂波が小さな笑い声を漏らす。一体どんな夢を見ているんだろう。気になって、ドキドキして、どうにかなってしまいそうだった。


「好き」


 耳元で囁くと、穂波が私に体を預けてくれた。

 ……気がした。

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