チョコレート、のち、ほなみ①
「おやすみ、雪羽。大好き」
そう言って彼女が寝息を立て始めたのは、夜の十一時のこと。
いつもより穏やかなその声は甘くて、とろけていて、冗談や嘘じゃないとすぐにわかった。それは、まるで。恋人に耳元で囁くような調子だった。
どういう意味なのか、知りたかった。
もしかして、私のことがそういう意味で好きなの?
なんて、ついうっかり聞いてしまいそうになるくらいの声色だったのだ。でも、彼女が安らかに寝息を立てて眠り始めてしまったから、聞くことはできなかった。
規則正しい寝息を聞いていると段々心が安らかになっていって、大好きの意味を聞く気なんてなくなっていく。
「……もう。私の気も、知らないで」
電話がまだ切られていないのをいいことに、眠っている夏川に声をかける。
夏川は一度眠ると中々起きない。
この前も、五限に眠った夏川は六限が終わり、放課後になってもなお目覚めなかった。
夏川の友達が起こそうとしていたのを止めて、後で起こすから先に帰っていいなんて言ったのは、私だ。
二人っきりになりたかったし、彼女の寝顔を近くで眺めたかった。それで夏川に薄情認定されてしまった彼女の友達には少し罪悪感を抱いている。
とはいえ、夏川と二人っきりになりたかったなんて悟られたらまずいから、真実を知られるわけにはいかなかった。
「好きだよ。私だって、好き。……おやすみ、穂波」
すうすうと、寝息だけが私の耳に入ってくる。
彼女の寝息を子守唄代わりに眠ったら、きっといい夢が見られると思う。問題は、それを聞いていたらドキドキして、とてもじゃないけど眠れないということだ。
好きな人の声を聞きながら、心穏やかに眠れるはずもない。
私はどうしようもなく彼女に恋をしている。もし恋人になって、彼女の隣で眠ることに慣れたら。その時は彼女と一緒に、穏やかな気分で眠れるのだろうが。
今の私には無理だから、静かに電話を切った。
その日は結局、大好きの意味が気になってあまり眠れなかった。
そして、翌日。
私は送られてきた住所に時間通りに来ていた。
人の家のチャイムを押すことなんてほとんどないから、緊張する。インターホンの前でうろうろしていると、扉が開いていくのが見えた。
「雪羽、いらっしゃい」
「……夏川」
「そろそろ来るかなーって思ったから。ビンゴだ」
まだ私は夏川の名前を呼んだだけなのだが、意図は伝わったらしい。私はどこにいても夏川の存在を感じることができるけれど、夏川はそうじゃない。
そのはずなのにチャイムを押す前に気づいて、顔を見せてくれた。
単なる偶然と分かっていても嬉しい。
それに。
今日は私服の夏川が見られた。休日に遊びに行くこともそれなりにあるけれど、家と外では服装が違うから、貴重だと思う。
いつもは可愛い系の服を着ていることが多い夏川だけど、部屋着はやっぱり系統が違う。グレーのスウェットは地味だけど、家で過ごすいつもの夏川って感じで新鮮だ。一緒に暮らすようになったら、こんな姿を毎日見られるのかも。
いや、そんなのはありえないって分かっているが。
「……可愛いの、着るんじゃなかったの?」
「あ、これ? これはいつもかっこだけど、ちゃんと可愛いの用意したよ。セクシーなのも。お風呂入った後に見せようと思って。いつものはどう?」
「可愛くは、ない」
「ま、そうだよね。でもこっちなら、濡れても平気だし」
「……?」
濡れても。何か、濡れるようなことをするつもりなのだろうか。
疑問に思っていると、夏川は手招きしてくる。
いつまでもインターホンの前に立っているのも変だから、私は家の中に戻っていく彼女の背中を追った。
人の家にはそれぞれ、特有の匂いがある。
夏川の家の匂いは、自然って感じの匂いだ。
なんだか落ち着くというか、夏川らしいというか。なんにしても私と夏川の家の匂いは相性がいいらしい。
夏川と私は、どうなんだろう。
相性が良くないと言われようと好きなものは好きだけれど、客観的に見てどうなのかとか、気になる。
私は夏川のことをいつでも見つけ出せて、夏川は私の無表情の奥にある感情を読み取ってくれる。
それは、相性がいいってことなのでは。
「お邪魔します」
「はーい」
夏川に連れられて、リビングに向かう。
私の家はマンションだが、夏川の家は一軒家だ。でもリビングの構造自体はあまり変わらない。
ガラスのテーブルと白い椅子。ダイニングの方には大理石のテーブルと、革のソファが置かれている。
なんというか、おしゃれって感じだ。
「ささ、こっちこっち」
自分の部屋に案内してくれるわけでもなく、かといってテーブルに案内してくれるわけでもなく。
夏川はそのまま窓を開けて、庭に出ていく。
私は手招きされるままに、窓まで歩いた。
「そこにある靴適当に履いてね。あ、そのピンクのやつが私の靴」
「……雪合戦でもするの?」
「ちっちっち。そんなロマンのないことはしないよ」
……なんだか、可愛かった。
もう一回ちっちっちって言ってほしい。
そんなこと頼めないから、私は大人しくピンクの靴を履いた。夏川の靴は私には少し大きい気がする。でも彼女の家族の靴を使うのは流石に気が引けた。
一度暖かい部屋の中を通ってきたせいか、外はさっきよりも寒く感じた。
日はもうほとんど落ちている。小さく息を吐くと、雪の積もった庭の真ん中に小さなかまくらがあるのが見えた。
「ちょっとだけ、私のロマンに付き合ってよ」
そう言って、夏川は笑った。
ロマンって、なんだろう。かまくらにロマンがあるだろうか。疑問に思ったけれど、夏川の笑顔が可愛かったから、断ることはできそうになかた。
「何するの?」
「それはねー……秘密。とりあえず座って」
私は狭いかまくらに座った。一応タオルが敷かれているみたいだったけれど、その下が雪だからお尻がじわじわと冷たくなっていく。
夏川はバタバタしていた。家の中と外を行ったり来たりして、ようやくこちらに来た夏川の手にはお盆があった。
夏川はそれを雪の上に置いて、私に近づいてくる。
「ちょっと詰めて」
私がスペースを開けると、夏川が入ってくる。かまくらがかなり狭いため、詰めて座っても腕が触れ合う。
ドキドキする。
する、けれど。
夏川は何をしようとしているんだろう。
「飲み物用意したから、ちょっと話そうよ」
「……うん、いいよ」
夏川は蓋のついた銀色のコップを渡してくる。コップからは湯気が出ていて、見るからに熱そうだった。
私は猫舌ってわけじゃないから、熱いものは熱いうちに飲むようにしている。
一口飲んでみるとそれは、チョコだった。
ホットチョコだ。
そういえば今日って、バレンタインだっけ。
フライングしたから、すっかり忘れていた。
「ハッピーバレンタイン」
私が一口飲んだタイミングを見計らって、夏川が言う。夏川はいつもとは少し違う、柔らかくて甘い微笑みを浮かべていた。
チョコよりもその微笑みの方がよっぽど、甘い。
だから私は一瞬思考が停止して、何を言えばいいのかわからなくなった。
「一応ちゃんとバレンタインしようと思って」
「そっか」
「あのチョコに比べたらちょっとしょぼいけど。サプライズは成功だね」
「……しょぼくないよ。美味しい」
「よかった。愛情を込めた甲斐があったよ」
そういうことを言われると、少し飲みづらくなる。
ホットチョコが甘いのは夏川の愛情のせいかな、なんて馬鹿なことを思ってしまう。
現代日本じゃ、チョコは甘いのが常識だ。でも、その中に夏川の愛情による甘みも混じっているとしたら。
どんなチョコよりも贅沢かもしれない、と思う。
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