フライング・バレンタイン③
デパートの最上階。
エレベーター近くのベンチに、私たちは座っていた。
「よくよく考えたら、変だよね」
夏川は紙袋からチョコの箱を取り出して言った。
「何が?」
「二人で一つのチョコ買うって」
「え、今更?」
「ほんと今更だけど。……手、出して」
私は夏川に言われるままに、手を差し出した。その手の上に、箱がそっと置かれた。
「はい、ハッピーバレンタイン」
「バレンタインって、ハッピーつけるっけ」
「あれ、これってハロウィンだっけ? まあ、細かいことは置いといて。次は私にちょうだい」
「なんの儀式なの、これ」
二人で買ったものだから、互いに渡し合うのは自然の流れ……なのだろうか。
確かにこれは、変だ。
でも、なんだかこの変な感じが、かえって愛おしいような気もしてくる。私たちのどちらかがお金持ちだったら、こんなことはしていなかったのだろう。
そう考えると、貴重なイベントだ。
「……ハッピーバレンタイン」
私は受け取ったチョコを夏川に返す。
今はまだ二月の七日だ。完全にフライングしてしまっているけれど、他の人がチョコを交換しない日にするというのは、特別感があっていい気がする。
これをバレンタインと呼んでいいのかは、わからないが。
「ありがとう。じゃあ、二人で開けよっか」
夏川は私にちょっと近づいてくる。太腿同士が微かに触れ合って、そこに橋をかけるようにチョコの箱を置いてきた。
チョコによってかけられた橋によって、私たちの境界線が曖昧になる。
ちょっとしか触れ合っていないのに、箱で隠されるとべったりとくっついているようにも見えた。でもそれは、そう見えるだけだ。
いっそ、見えないのを利用して思い切り太腿をくっつけてしまうか。
そんなことをしたら「好き」と言うのを必死に抑えている私の理性が弾け飛んで、大変なことになってしまうかもしれないけれど。
「初めての共同作業だ」
「……こういうの、共同作業って言うの?」
「言うってことにしといてよ。ほら、開けよ」
「うーん……まあ、そうだね」
夏川はまた変なことを言ってくる。
共同作業とか言われると、意識してしまうじゃないか。
夏川の馬鹿。鈍感。無神経。好き。
私は心の中でぶつぶつ文句を言いながら、包装を破き始めた。
「あっ」
「え?」
夏川を見ると、破かないでちゃんと包装を開けようとしているのが見えた。
開けるって、そういう感じ?
「意外と大胆だね、雪羽」
「早く開けたいし」
「食いしん坊だなぁ」
夏川はくすくす笑いながら、私に倣って包装を破いていく。
静かなフロアに、包装の破ける音が響く。私の方が音が大きくて、夏川はあまり包装を破くことに慣れていないのか、音が小さい。
その音の強弱が、私たちはまだ他人なのだということを如実に表している、ような気がした。
「蓋も一緒に開けようか。せーの」
「こういうのって、せーので開けるものかな」
「質問が多いよ。雰囲気だよ、雰囲気」
なんの雰囲気なんだろうか。
わからないまま、蓋の端を掴む。夏川の動きに合わせて蓋をゆっくり開けようとすると、彼女の指が気になってくる。
私よりも長くて細い指。あまりじっくり見たことはないけれど、綺麗だと思う。爪の形もいいし、ネイルが映えそうではある。
恋人繋ぎをしたら、気持ち良さそうだと思った。
ただ手を繋いでも、彼女の滑らかな手の感触は心地良いのだ。といっても、彼女と恋人繋ぎをする機会なんてないし、あったとしても、してはならないのだろう。
絶対に抑えられなくなる。
抑えられなくなったら泡は弾けて、楽しかった思い出すら、全てが絶望に上書きされてしまう。
それなら。
いつか自然に消滅するまで、思いを抑えて、しまいこんで、楽しい思い出を増やす方がいいに決まっている。
「わ、綺麗」
蓋を開けると、夏川が言った。
確かに綺麗だ。
サンプルは見たけれど、実際に食べられるチョコを見ると、輝き方が違うような気がする。
結局私たちは、惑星の形をしたチョコを買った。球形のチョコは本物の惑星みたいに鮮やかで、輝いているように見えた。
「どれ食べる? 地球?」
夏川はいつもより少し楽しそうだ。
その笑顔を見ているだけで、胸が満たされていく。
夏川の笑みには不思議な力がある。見ている人を幸せにするというか、穏やかにするというか。
太陽みたいな笑み、とはまた違う。
柔らかいその微笑みを、何に例えればいいのか。その答えを、私はまだ見つけられていない。
ただ、その笑顔が好きだということだけは、確かだった。
「先、選んでいいよ」
「えー。半分ずつ出したんだから、平等にいこうよ。じゃんけんとかする?」
「しない。私は、どれでもいいから」
「つまんないなぁ。じゃあ、うーん……。そうだ」
夏川は地球を摘んだ。
それを私の方に差し出してくる。
鮮やかな星に、綺麗な爪。見ているだけで、溶けてしまいそうだった。
今日は、溶けそうになることが多い。
バレンタインだから、だろうか。いや、まだバレンタインではないのだが。
「はい、あーん」
夏川は基本的に、こんなことはしてこない。
芸術的なチョコを見て、いつもよりテンションが上がっているためなのだろうか。彼女は微笑みながら、私にゆっくりとチョコを近づけてくる。
食べても、いいのかな。
抑えられなくなったりしないだろうか。うっかり好きだなんて口を滑らせたら、終わりだ。
私もチョコでテンションが上がっているということにすれば、セーフかもしれないが。
あれこれ考えて、私は口を開けた。
チョコは私の口のすぐ近くまで迫って……夏川の口にUターンしていった。
「……夏川?」
「地球、美味しいね」
「……」
冗談、だったのか。
期待して、覚悟して、損した気分だ。
私はふつふつと苛立ちが湧いてくるのを感じた。私の気持ちをなんだと思っているのだろう。
夏川と恋人になれる日が来ないってことくらい、わかっている。わかっているけれど、こういうのは嫌だ。あーんと言ってきたのなら、撤回しないでほしい。
好きな人からそういうことを言われると、期待してしまう。ドキドキしてしまう。抑えられなくなってもいいかなんて、思ってしまう。
私はそっと太陽を摘んだ。
私の気持ちも知らないで、夏川は幸せそうに笑っている。
わかっている。彼女にとって今のはじゃれ合いの範疇で、大した意味なんてないってことくらい。
それなら、私も。
「あーん」
「え?」
「そんなに食べたいなら、食べさせてあげる」
「えーっと」
「ほら、口開けて」
夏川は少し迷った様子を見せてから、口を開いた。
その柔らかな唇にわざと触れるように、チョコを運ぶ。
指ではない部位で触れたいといつも願っているその唇は、想像していた以上に柔らかくて、弾力がある。
指で触れただけだから、舞い上がるってことはない。
嘘だ。
本当は、舞い上がるというか飛び上がっている。一生触れられないと思っていたその場所に少し触れただけで心が宙に浮かんで、空を飛んで、大切なものが行方不明になりそうになっていく。
バレンタインを先取りして、飛び上がって。
いいのかなと、少し思う。
「美味しい?」
「お……美味しい。って、もー。いきなりすぎ! いつも塩対応なのに! バレンタインだからサービスしてくれたの?」
あーんすることが、サービスになるんだろうか。
だとしたら、いいと思う。
「そうかもね」
「じゃあ、今度こそ私もあーんしてあげる」
「それはいい。私も他の勝手に食べるから」
「えー。私にもサービスさせてよ」
私は夏川を無視してチョコを口に入れた。
甘い。
せっかく高いお金を払って買ったのに、甘い以外の感想が持てない。
夏川は、どうなんだろう。ちゃんと味わって、本当に美味しいって感じたんだろうか。感じていなければいい。
少しだけ、そう思う。
私だけチョコの味がわからないのは不公平だ。
私だけ、好きなのも。
思わず、はぁと小さく息を吐いた。
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