第−5話 ラストイヤー

 とうとう俺たちは三年生になった。いや、なってしまった。彼女の余命は残り一年。中学校生活の終わりは、彼女の命の終わりに等しかった。

『先生から伝言預かってきた』

『伝言?』

 彼女は英文を書き連ねる手を止めて、顔を上げた。その手が握るのは、俺が昨秋あげたピンクのシャープペンシル。

『来週、三年生で一発目の模試があるんだけど、もし調子良ければ受けてみないかって』

『模試かぁ……ここでも受けられるの?』

 再びノートにペンを走らせた。二年生のうちに中学内容の学習を終わらせた彼女は、すでに高校レベルの参考書と睨み合っていた。

『うん。やるなら病院の方に問題送るってさ。解答は放課後に先生が取りに来るらしい』

『んー……受けてみようかな』

 その返事に、俺は内心喜んでいた。模試を受けるということは、つまり身体の調子が良いということだから。

『りょーかい。伝えとくよ』

『せっかくの機会だしね。……まだ、読める字が書けるうちに』

 彼女のノートをこっそり盗み見た。英作文の問題に取り組んでいるみたいだったが、俺には書いている内容がわからなかった。それは、ただ単語や文法が難しいだけではなくて。




『返ってきたよ、模試の結果』

 彼女が初めての模試を受けて約一ヶ月後、俺はその結果を手に、彼女を訪ねた。

『模試?……ああ、四月に受けたやつね』

『今さ、学年でこの模試の結果が話題になってるんだ』

『へー、難しかったの?』

『そうじゃなくて……』

 彼女は本から顔を上げて興味の色を示し、膝の上のむーむーと、揃って俺を見つめた。

『うちのクラスに、いつも学年一位のメガネのやつがいるんだけど、今回そいつが二位だった』

『それは大事件だね』

『いや、問題はそこじゃない』

 まるでサスペンスドラマの探偵になった気分だった。

『誰が何位だったとか、上位の人は大抵情報が流れるんだよ』

『えー、順位バレるの? プライバシーの侵害じゃん』

 切れ味の良いワードチョイスに、罪悪感が俺を襲った。バレて恥ずかしい順位でもないのに、贅沢な不満だ。

『……今回、情報通のやつらがどれだけ探し回っても、成績上位常連に学年一位が見つからない』

『ということは、春休み中に下剋上を成し遂げた人が……?』

『今はそういうことで落ち着いてる』

 『すごいねー』と呟きながら、彼女はまた本に目を落とした。他人事みたいに。

『それで——』

『まさか続きが⁉︎』

 再び顔を上げた彼女の目には光があった。ミステリーとか好きなのだろうか。

『俺……ワンチャンあるかもって思ったんだよ』

『え、え、まさか優くんが一位⁉︎』

 興奮しかけていた彼女だけど、いくら彼女がバックについているとはいえ、俺が学年一位は流石に無理のある話だった。

『そうじゃなくて、これ』

 俺は鞄から模試の成績表を引っ張り出した。自分のじゃなくて、彼女の。

『ごめん、どうしても気になって勝手に見た』

 彼女は、何も言わずにそれを受け取り、中を見た。成績表なんて初めて見たのだろう、見方がわからなかったのか、反応するまで少し時間がかかった。

『えっ、これって……』

『見たままだよ。……すごいな! 学年一位だよ‼︎』

 俺はもう興奮を抑えることが出来なかった。彼女はじっと成績表を見つめたまま。

『数学と英語と社会は満点! 噂で聞いた二位の点数と二十点近く差があるし』

『そっか……私が一位……えへへ、嬉しい』

 照れてるように、彼女は笑った。そのときの表情は心から喜んでいるようで、いつもと違って自然に見えた。

『俺まで鼻が高いよ。学年中に言い振らして回りたい!』

『やめてよ恥ずかしい……優くんは喜びすぎ』

 彼女は髪の毛を弄びながら本を閉じて、ベッドテーブルの上に置いた。

『ていうか、勝手に見たの?』

『あー……うん』

 俺は自覚が芽生えるほどわかりやすく、しどろもどろになった。まさにプライバシーの侵害。彼女の冷ややかな視線が痛かった。

『……へんたい』

『はあっ⁉︎ てか、いつも俺の見せてんじゃん! お互い様だし!』

『ふふ、冗談だよ』

 揶揄ってくるあたり、その日の彼女は大層機嫌がよかった。俺の心臓にはかなり悪いが。

『優くんのも見せてね』

『俺の見ても面白くないと思うけど』

『じゃあキミは、私の恥ずかしいところを一方的に見ておいて逃げる気ですか?』

『その言い方は語弊あるからやめて』

 こうやって、彼女の無邪気な部分が垣間見えるのは久々で、嬉しかった……というか安心した。




 最後の大会を終えて部活を引退してから、平日はほぼ毎日彼女の病室へ足を運んだ。夏休みなんて、半日近く病室にいる日も珍しくなかった。

 夏の終わり、二学期の始業式が差し迫っていた頃。

『優くんは、どこの高校受けるの?』

 彼女にそう問われた。部活も終わったことだし、進路のことも考えないといけない時期だった。

『この前体験入学に行って来たんだけど、まだ悩んでる。あ、今パンフレットあるけど見る?』

『見たい見たい!』

 俺がベッドテーブルにパンフレットを二冊広げると、彼女は身を乗り出してページを捲った。しばらくは無邪気に目を輝かせていた彼女だけど、それはだんだんと真剣な眼差しに変わっていき、俺はその横顔に見惚れていた。

『すごいね、この辺で一番と二番の進学校だ』

『お陰様でな』

 進学校を目指すなんて、中学入学当初の成績では夢のまた夢のような話であった。そんな贅沢な悩みを抱えられたのは、早い段階で彼女が手を差し伸べてくれたから。

『こっちにしなよ』

 彼女が手に取っていたのは、東暁とうぎょう高等学校のパンフレット。手元の二冊のうちの、より頭がいい方だった。

『その心は?』

『優くんにはこっちの制服の方が似合うよ!』

 ある意味、度肝を抜かれた。春の模試一回きりとはいえ、仮にも学年トップの彼女の目の付け所が、まさかの制服。

『いや……そこ?』

『大事なとこじゃん! 三年間着るんだよ?』

 東暁の制服は、ブレザーにネクタイ。もう一校の方は、今と何ら変わり映えのない学ラン。確かに、似たような学ランを六年着続けるのも面白みがないとは思った。

『このネクタイ、赤っていうか緋色?のやつ、絶対カッコいいと思うよ! ……女子のリボンもいいなぁ』

 「カッコいい」という言葉に、少し胸が躍った。それと同時に、制服について熱く語る彼女が、なんというか———

『私も、こんな……こんな……』

 普通の女の子みたい。そう思った。

『かわいい制服を着て、学校に行きたい』

 窓の外の、鮮やかな緑色をした桜の木を見て。まるで、もう叶わないと嘆くかのように。





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