第−7話 変わってしまう
二年生になった。ついこの前入学式を終えたばかりな気がしたが、鈍っているのは俺の感覚の方で、カレンダーは四月を知らせていた。
『また同じクラスだったよ。あとこの前話した同じ部活の智樹とか———』
春休み中の出校日で、新しいクラスが発表された。やはり学校側は、彼女と近い距離にある俺を、彼女から離したくなかったのだろう。俺はプリント届けの駒に使われていた。
『そうなんだ。優くんがいるなら、私がいつ復帰しても安心だね』
『いつでも待ってるよ』
その微笑みから、自嘲の念は少しずつ薄れている気がした。
『あ、そうだ』
彼女は突然、ベッドの下を漁り始めた。
『……大丈夫?』
上から覗き込む体勢で、落ちるんじゃないかと俺はハラハラしていた。
『じゃーん! キミにプレゼントでーす』
差し出してきたのは、未開封の黒いシャープペンシルだった。
『プレゼント?』
『先週誕生日だったでしょ。お返しするって約束したから』
そう言われて、去年の秋を思い出した。あの時あげたむーむーは、枕元でおとなしくペタンと座っていた。
『下の売店で買ったからラッピングとかないけど……そこは大目に見て』
『十分だよ。ありがとう』
彼女は満足気に笑って、右手の指先で髪の毛を弄んだ。それを横目に、シャーペンを開封して握ってみた。
『おー、この細さ持ちやすい。さっそくこれ使うよ』
『今日は何やるの?』
『数学。わかんないところあるから教えて』
こんなやりとりを始めてから、もうすぐ一年経つ頃だった。
『この問題なんだけど』
『えーっと、これはね———』
彼女は既に三年生の内容に触れ始めたらしくて、ベッド脇の棚には『中学三年』と背表紙に書かれた参考書が積み重なっていた。
『———だから、mとnは奇数になって、それで……ケホッケホッ』
説明の途中で、彼女は咳き込んだ。胸の辺りを摩り、目には涙が浮かんでいた。
『大丈夫?』
『ケホッケホッ……収まった、大丈夫』
水を一口飲んで、それ以降咳き込むことはなかった。でもなんだか、後味の悪いものが俺の中に残っていた。
一学期も終盤に差し掛かり、夏の日差しはより強くなっていた。いつも通り自転車を飛ばせば汗で全身ビショビショなり、熱中症になりかけたことも数え切れない。
『はぁっ……疲れたー』
『今日もすごい汗だね……大丈夫?』
丸椅子に倒れ込むように座り込むと、彼女は毎度心配して言葉をかけてくれた。
『平気平気。汗臭かったらごめん』
『そんなの気にしないよ』
夏の間は部活の有無に関わらずタオルを持ち歩いていたので、それで適当に汗を拭き、涼しい病室で羽を伸ばす。それが夏の日課だった。
『ありがと。今日はさ、お願いがあるんだ』
『ん、なぁに?』
呼吸を整えて、丸椅子に座り直した。
『夏休み中、めっちゃ来てもいい?』
『めっちゃ……?』
我ながらよくわからない頼み事だと思った。開け放たれた窓の外を、小鳥の影が二匹ほど横切って行った。
『期末テスト、ちょっと良くなくてさ……もしよろしければ、ご教授願いたいです』
『何、そんな改まって。変なのー』
彼女は可笑そうに笑った。別にふざけている訳ではなかったのだが。
『一言連絡くれれば、いつでも来ていいよ』
『マジか! ありがとー、助かる!』
『それで?』
『ん?』
こちらに手を出し、彼女はにっこりとして首を傾げた。
『悪かったってことは、返ってきたんだよね、テスト』
俺は口をつぐんだ。彼女はもはや先生みたいな存在と化していて、テストの結果は毎回見せていたのだが……
『いやぁ……ちょっと今回は———』
『みーせーて!』
圧に押され、渋々鞄から解答用紙を取り出した。見せたくなくて、裏返しにして見つめていると彼女はそれをサッと奪った。
『どれどれ』
次々と裏返し、赤い数字を目で追っていった。今までは五教科平均九十点は取れていたが、今回の期末は良い教科で八十点後半、苦手な数学に関しては八十点にすら及ばなかった。
『……悪くないと思うよ』
勉強を見てくれている彼女には申し訳ない結果だと思っていたが、当人は案外ケロッとしていた。
『二年生から難しくなるもんね。数学の問題と解答ある?』
『あるけど……』
問題と解答を渡すと、彼女は俺の解答用紙とそれらを見比べて、大きく頷いた。
『間違ってるとこ、計算ミスが多いね。答えの導き方は合ってるよ。演習不足が敗因かな』
間違えている計算過程を指差し、軽く説明をしてくれた。
『点数が低かったからって落ち込むことないよ。むしろ夏休みに頑張るべきところが見えてきて、ちょうど良かったんじゃない?』
そう言って微笑んで見せた。彼女が励ましてくれると、すごく安心して……ぶっちゃけ凹んでいたけど、一瞬で癒された。
『……そうだな』
『他の教科も分析しよっか。その前にお茶でも一杯いかが?』
彼女はベッドから出ようと、布団を捲った。同時に長い髪の毛が揺れ、それを耳にかける仕草が綺麗だった。
『じゃあ貰おうかな』
『ん、ちょっと待って』
そして彼女は立ち上がった。が——
『わっ……』
冷蔵庫の高さに合わせてしゃがんだ、というより膝から崩れ落ちた。
『ちょっ、大丈夫か⁉︎』
慌てて反対へ回ると、彼女は床に座り込んでいた。そのままなんでもないように冷蔵庫を開け、お茶のペットボトルを取り出した。
『あはは、平気。ちょっと力抜けちゃって……』
『いいよ、自分でやるから。立てる?』
俺が手を伸ばすと、彼女はそれに自らの手を重ねた。成長に伴って生まれた体格差のせいで、少し加減を誤れば潰してしまいそうなほどに、彼女の手は小さく感じた。
『ありがとう』
俺はなんでもない風を装ったけど、内心は焦りが生じていた。彼女の身体が弱っているのを、否が応でも感じざるを得なかったから。
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