第−9話 運命だから

 もう一度、母さんと共に彼女のお見舞いへ行った。手土産に悩んだ末、長い入院生活は退屈だろうからと、俺は彼女に貸す漫画を何冊か持参した。

『あれ、優くん……おばさんも、来てくれたんですね』

 彼女は笑顔だったけど、その瞳の奥は笑えていなかった。その瞬間の心の痛みが、未だに忘れられない。

 母さんは彼女に体調を聞いた。俺は黙って耳を傾けていたが、そんなの頭に入ってこなくて。

『じゃあ優真、私は出るから』

 気を遣ったのか、母さんは病室を後にした。俺たちの間を、嫌に冷めた空気が流れた。

『……漫画、貸すよ。入院って退屈だろ? これで時間潰して。好みがわかんなくて、色んな種類持ってきたから。俺のオススメはこれかな。ストーリーもいいんだけど、キャラクターにクセがあって———』

 手土産の代わりだなんて、建前でしかなかった。本当は、彼女を目の前にして何を話したらいいのかわからなかったから。黙っていたら嫌な考えが浮かんできてしまいそうで、俺は矢継ぎ早に漫画の話をした。

『そっか。面白そうだね』

『だろ? 実は、隣街がこの漫画の舞台なんだ。これ読んで、さっさと退院したら、一緒に行こう』

 何気ない一言だった。ただ、自然に溢れた願い。

『ごめんね』

 彼女は困ったように笑って、謝った。人生の半分以上を共に過ごした彼女の、見たことがないほど虚しくて、切ない笑み。

『……なあ、ほんとに治らないと思ってんのか? 大人が大袈裟なんだよ。大丈夫、ドナーだってすぐ見つかるし、絶対良くなるから』

 今思えば、俺はなんて無責任なことを言ったんだろう。辛いのは俺じゃないのに、自分の願望を押し付けるばかりで。

 彼女は、窓の外で風に揺れる葉桜を見つめた。長い髪の毛に隠れて、表情はよく見えなかった。

『仕方ないよ。これが私の運命なんだから』

 明るく努めているが、どこか悲しそうで、苦しそうで。たった十二歳に少女に『運命』なんて言葉は、あまりにも重すぎた。昔のように無邪気に笑う彼女は、もうどこにもいなかった。

『……俺、そろそろ行くよ』

 そんな彼女の姿に、俺は密かに決意した。

『うん。漫画、ありがたく借りるね。いつ返せばいい?』

『退院してから』

 この先、彼女を不安にさせるようなことを俺は言わない。

『……だから私は———』

『一通り読んで、続き読みたいのあったら連絡して。次来るとき持ってくるから』

 絶対、彼女から離れない。ずっと側にいる。

『……また、来てくれるの?』

『もちろん』

 彼女は助かると、信じ続ける。




 それから俺は、部活のない日は必ず、彼女の病院まで自転車を飛ばした。

『顧問の先生が厳しくて、最初十人いた一年生が今じゃ六人だけだよ』

『たった一ヶ月で? さすがバスケ部……やっぱりキツいんだね』

 最初は遠慮する彼女だったけど、次第にそれもなくなった。

『真面目に練習してれば何も言ってこないんだけど、やっぱ男なんてアホばっかりだから』

『アホって……それは言いすぎだよ』

 心なしか表情も柔らかくなり、少しずつではあるが以前のような明るさを取り戻していた。あの余命宣告は嘘だって、本気で思った。

『あ、そうだ聞いて。中学の勉強って難しくてさ、数学の小テストヤバかったー』

『小学校と全然違うよね。でも今のところ理解できないと、後々大変だよ?』

『え』

『ん?』

 予想と違うリアクションが返ってきて、一瞬耳を疑った。

『いや……勉強してるの?』

『してるけど』

『まじか、偉っ』

 てっきり俺は、勉強なんてせずに寝ているだけなんだと思っていた。我が思考ながら、まったく失礼な話だ。後から考えてみれば、院内学級みたいなのもあるだろうし、別に当然のことなのだけど。

『だって、優くんたちが勉強とか部活頑張ってる間に私は寝てるだけなんて、なんか罪悪感あるし』

 彼女は俺たち普通の学生よりずっと過酷な境遇にあるにも関わらず、謙虚だった。

『まあ、止めはしないけど。無理のない範囲でな』

『大丈夫だよ。脳は正常ですから』

 自慢げに彼女は言ってたけど、正直何と返せばいいかわからなかった。

『……ちなみに、どこまで進めてるの?』

『えっと、数学の教科書は半分くらい終わったかな。英語は、あと少しで一年生の文法はマスター出来そう』

『早っ……』

 入学してまだ二ヶ月も経たないというのに。中学で勉強のレベルは格段に上がり、元々できる奴らが落ちていくのだって珍しい話ではなかった。そんな中、確実に理解しながら自力で教科書を進める……並大抵のことではなかったはずだ。

『私は暇なだけだよ。……よかったら、わかんないところ教えようか?』

『え、いいの⁉︎』

 そうして俺は、彼女の病室で勉強を教わるようになった。彼女の教え方は学校の先生よりわかりやすくて、稀にわからなかった授業の内容そのものを解説してもらう時もあった。それまで蔑ろにしていた勉強も軌道に乗り、皮肉なことに俺の学校生活は充実した。




 一学期の期末テストが終わってすぐ、俺は彼女の病室へ向かった。

『教えてもらったところ、バッチリ出たよ! 返ってきたら見せに来るから』

『自信満々だね。楽しみにしてる』

 彼女はそう言っていたけど、どこか寂しそうな顔をしていた。

『せっかく勉強出来るのに、発揮するタイミングが無いのも……なんか嫌だな』

 学校のやつらにも、彼女の凄さを見せてやりたかった。俺の、自慢の幼馴染。

『仕方ないよ。これが私の運命なんだから』

 彼女は窓の外を眺めて言った。前も聞いた言葉だって気づいたのは後からだった。あの時の葉桜はもう、緑一色で。

『それにほら、優くんに教える役割を担ってるわけだし。私はこれで満足だよ』

 嘘だってわかった。上手く笑えてなかったから。





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