第29話 好き
俺はあるものを取りに行ってから、再び、里奈さんの部屋の前に戻っていた。
一呼吸置いてから、ノックをする。
さっきと同じミスをしないよう、今度は部屋の中から返事が来るのを待つ。
されど、十秒経っても返事がこない。
俺は恐る恐るドアノブに手をかけた。
「……すん」
中に入ると、里奈さんが声を殺して泣いていた。
「り、里奈さん? 大丈夫ですか⁉︎」
「……大丈夫じゃない」
掠れた声で、里奈さんは鼻水をすすりながら答えてくる。
「え、えっと……どうしよ……」
「一人に、しないでよ」
ポツリと里奈さんが呟いた。
俺の心臓がピクリと跳ねる。
近くの椅子に腰掛けると、里奈さんの左手を右手で握りしめた。
「すみません。寂しい思いをさせたかった訳じゃないんです」
「……心細かった。また、拓人くんがどっか行っちゃうと思った」
熱に浮かされているせいだろうか。
里奈さんがいつになく素直に、胸の内を明かしてくる。少しだけ幼児退行したみたいに見えた。
「どこにも行きません。ずっと、里奈さんの隣にいます」
「言葉だけじゃ、信じられない」
重々しく、里奈さんは告げる。
そうだよな。
言葉だけならなんとでも言えてしまう。
言うのは簡単なんだ。
だから俺はこれから行動に示したいと思う。
俺は後ろ手に隠していた紙を、里奈さんに差し出した。
「これ、受け取ってくれませんか?」
里奈さんはまぶたをパチパチと開閉する。
しばらく呆然と見つめた後、彼女は俺から紙を受け取った。
「こ、婚姻届?」
「はい。さっきもらってきたんです」
市役所まで行ってもらってきた。
もちろん、まだ俺の年齢では結婚はできない。
さしたる意味はないかもしれないが。
「俺の記入欄は埋めました。俺、里奈さんのことマジで好きなんです」
「た、拓人くん……」
「結婚だってしたいです。ずっと里奈さんと一緒にいたい。そう思ってます」
「…………」
里奈さんの頬にツーッと一筋の雫が伝う。
頬を赤らめ、里奈さんは顔を伏せた。
「拓人くんっておかしいんじゃないの?」
「そ、そうですか?」
「うん、重すぎだよ。まだ高校生なのに婚姻届渡してくるとか、どうかしてる」
「うっ……」
でもこのくらいしか思いつかなかったのだ。
「それに、私にこんなの渡しちゃダメだよ。拓人くんが18歳になった瞬間に、役所に出しちゃうよ?」
「か、構いません。俺はそれでも!」
前のめりになりながら、俺は力強く言う。
「いいんだ……」
「は、はい!」
「ま、まぁ、これだけじゃ結婚できないけどね。身分証明書とか諸々必要だった気がするし」
「あ、そうですよね……」
でも今、身分証明書を里奈さんに渡すのはさすがに難しい。
俺の日常生活に支障をきたしてしまう。
「私、拓人くんが思ってるような女の子じゃないと思う。ワガママだし、嫉妬深いし、面倒臭いと思う。私の本性知ったら嫌になるよ、きっと」
里奈さんが不安を帯びた声で、そっと訊ねてきた。
里奈さんは可愛くて、話していると楽しくて、とにかく相性がいいと思った。
彼女と一緒なら、ずっと楽しく暮らせる。
そんな直感が俺の中で働いている。
それに俺は、昔の里奈さんだって知っている。まぁ、最近まで忘れていたのだから偉そうに言えないけど。
初めて会った時の里奈さんは、なにかとワガママだった。
俺を色々なところに連れ回して、俺を独占したがって、ちょっと鬱陶しいくらいだった。
でも、そんな時間がすごく楽しかったのを覚えている。
「大丈夫です、俺はどんな里奈さんだって好きです。絶対、愛想尽かしたりしません」
だから、俺は臆することなく里奈さんの問いかけに答えた。
里奈さんはわずかに目を見開く。
俺の手を握り返して。
「本当に、好きでいてくれるの?」
「好きです。一生好きでいます」
里奈さんはただでさえ赤い顔に、さらに朱を注いでいく。
「後悔してもしらないから」
「しませんってば」
意外と自己肯定感が低いんだな、里奈さんは。
もっと自信に満ち溢れている人だと誤解していた。
でも、好きな子の知らない側面を知れていることが、嬉しくてしょうがない。
里奈さんは布団を深く被ると、目元だけこちらに覗かせて。
「……今日はずっと、傍にいてくれる?」
「いますよ、ずっと」
「そっか」
「はい」
里奈さんは安心したように吐息をもらすと、まぶたを落とした。
眠りにつくまでそう時間は要らなかった。
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