第27話 秘めた思い

「あーぁ、私もうお嫁にいけないよ」


 里奈さんはすっかり不貞腐れていた。


「すみません……」

「風邪ひいてる上に、裸見られるとか、泣きっ面に蜂じゃん」

「ホントすみません。……で、でもアレですね。唯一、俺の元にはお嫁さんにこれますね」

「そういうこと言えば、私が許してあげると思ってる?」

「ゆ、許してくれませんか?」

「ううん、許してあげる。冗談だったらタダじゃおかないけど」

「肝に銘じておきます!」


 俺は背筋に寒いものが走る感覚を覚えつつ、グッと肩に力を入れる。


 里奈さんはクスリと微笑むと。


「来てくれてありがと。拓人くんの顔見たら元気出てきた」

「……そ、そっすか。それならよかったです」


 あさっての方を見る俺。


 照れ臭くなって、頬を意味もなく掻いてしまう。


「なんとしても今日中に治さないとね。じゃないと明日が」

「あぁ、それなんですけど、旅行はキャンセルにしましょう」

「え?」

「無理させるわけにいきません。今日中によくなったとしても、病み上がりで旅行なんて無謀ですからね」


 体調を最優先で考えるべきだろう。


 辛い思いをしてまで、旅行するメリットはない。


「だ、ダメだよ……そんな。私、絶対ちゃんとよくするか──ごほ、ごほっ」


 上体を起こして俺に縋り付く里奈さん。


 俺は里奈さんの背中をそっとさする。


「無理しないでください」

「でも」


 腫れ物に触るみたいに、優しく里奈さんの肩を押してベッドに横にする。


「旅行はいつでもできますよ。また今度にしましょう」

「やだ」

「な、なんでそんな強情なんですか。お金のこと気にしてるんですか?」

「そうじゃない。……私はただ、拓人くんと一緒に旅行したいだけ」

「だからまた今度に──」

「なんで、そんな簡単に切り替えられるの?」

「えっと、状況が状況ですし」

「……そう、だよね。拓人くんは私と違うもんね」


 里奈さんは不満を込めた声色で、吐き捨てるようにこぼす。


 里奈さんの言いたいことが今ひとつ伝わってこず、俺は眉根を寄せてしまう。


「違うってどういうことですか?」

「拓人くんは唯香と付き合ってたもんね。私より、たくさん色んなこと経験してるんでしょ。私は全部初めてだもん。でも、拓人くんは違う」


 その声はいつになく冷たくて、胸の内から搾り出された切実な思いを孕んでいた。


 里奈さんは俺が初めての彼氏。

 けれど俺にとって里奈さんは、二人目の彼女。


 里奈さんに元カレはいないが、俺には元カノがいる。


 しかも、里奈さんの妹だ。


 里奈さんは、とても近い距離で俺たちの関係を知っていた。

 目を塞ぎたくても情報が自然と入ってきただろう。


 里奈さんは悩みなんて一つもないくらい明るくて、なんでも笑顔で吹き飛ばす。そんな女の子だと思っていた。


 けど当然、なにもかも割り切れるほど、精神が成熟しているわけじゃない。


 俺はフルで頭を回転させると、躊躇い気味に口を開いた。


「お、俺だって里奈さんとの旅行楽しみにしてましたよ」

「じゃあ行こうよ。私、絶対治すから」

「でも、無理して行っても楽しめるものも楽しめません。だから──」

「……拓人くんにはわかんないよね。私の焦燥感なんて」


 俺は下唇を噛む。


 少し逡巡してから、慎重に切り出した。


「焦らなくていいじゃないですか。ゆっくり俺たちのペースで進んでいけば」

「じゃあ、どうして拓人くんは唯香と会うの?」

「え?」

「やめてよ。唯香と会わないでよ。話したりしないで。私だけ、見てよ」

「ま、待ってください。俺、唯香とわざわざ会ったりなんか──」

「自分から行ってないだけでしょ」


 ピシャリと、里奈さんが俺を断じた。


 途端、俺の身体が固まる。


「唯香から来れば会うんでしょ、話すんでしょ?」

「そ、それは……」


 唯香と別れて以降、俺から唯香に接触することは明らかに減っていた。


 いや、なかったと断じてもいい。


 だが、唯香からやってきて話したことはある。

 それに対して、強く拒否反応を示したことはなかった。


「で、でも俺、やましい気持ちがあったわけじゃ──」

「私は知ってるから。拓人くんが唯香のこと好きなこと」

「え、えっと」

「唯香とデートしてるとこも何回も見てきたもん。夜中に電話してるのだって壁越しに聞いたことある。いっぱい、いっぱい知ってる。ずっと脳裏によぎるの。拓人くんは結局、唯香のことが好きなんじゃないかって。いつか簡単に捨てられちゃうんじゃないかって……」


 涙目になりながら、里奈さんは俺を見つめる。


 里奈さんがそこまで思い詰めているなんて、全く考えていなかった。


 俺は里奈さんの手を強く握りしめる。


「俺は、里奈さんが好きです。本気で、里奈さんのことが好きです」


「じゃあ、なんで私のことだけ見てくれないかな。唯香のこと見ないでよ」


 里奈さんがポツリと胸の内に秘めていたものをぶつけてくる。


 里奈さんの負の感情に触れたのは初めてだった。

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