第25話 姉と妹

 数日が経過して、俺は今、里奈さんの部屋にいた。


「行くなら熱海とかかな」

「……そう、ですね」

「どうしたの? やっぱ気が変わった?」

「いえ、そんなことはないです」

「嫌なら断ってくれて良いんだよ?」

「違いますから。ただ、やっぱり……その……」


 借りてきた猫みたいに大人しくなり、もごもごと口籠もる俺。


 俺の言わんとしていることを察したのか。

 里奈さんは柔らかく微笑むと、耳元に近寄ってきた。


「楽しい思い出、いっぱい作ろうね」

「……ッ」


 脳がとろけるような甘い声。


 この人、今から俺の理性を壊しにきてるのかな? 


「でも、時期が時期だから宿ほとんど埋まっちゃってるね」

「夏休みですからね。前もって予約する人が多いのかと」


 里奈さんはパソコンの液晶に映る、宿の空室状況を見て苦い顔を浮かべた。


「計画性って大事だね……」


 前々から行動している人間が、物事をうまく運ぶことはままあることだ。

 テスト勉強然り、計画を立てて行動できる人間の方がなにかと強い。


 思い立ったら吉日精神だと、とんとん拍子で進まないこともある。


 まぁ、里奈さんの思いつきに振り回されるのは嫌いじゃないし、そういうところこそ、里奈さんの魅力だと思うけど。


「あ、ここなんかどうですか?」

「ん、どこ?」

「急にキャンセルが出たみたいで、一室空きがあるんです。レビューも良さげです」

「うん、いいかも。じゃ、そこにしちゃおっか」

「はい」


 スマホで見つけたサイトを見せると、里奈さんは肯定的な意見をくれる。


 里奈さんはカタカタとパソコンを操作して、予約ページに遷移した。いよいよ後に引けないなこれ……。


 ちなみに……というか当たり前だが、未成年だけで宿の予約は難しい。

 しかしその点は、里奈さんが母親に頼んで了承を得ており、クレジットカードを一時的に使わせてもらっている。


 かなりグレーなやり方ではあるが、宿の予約は取ることができた。あとで親の同意書等は必要になりそうだが……まぁ、なんとかなるだろう。


「よし、予約完了。夏休みの最後の方だけどヘーキだよね?」

「俺は平気です。てか、予約してから聞いてどうするんですか」

「たはは、たしかに。……あ、ちゃんと夏休みの宿題は終わらせとくんだよ?」

「うっ……」


 カエルが踏み潰されたような声を出す俺。


 嫌なことを思い出した。


 まだ何も手をつけていない……。


「あとで私に泣きついてもダメだからね」

「そこはなんとかしてくださいよ、里奈さん」

「だーめ。でも、そうだな……ちゃんと終わらせられたらご褒美あげる」

「ご褒美ですか?」


 俺は声のトーンを一オクターブあげる。


 ご褒美って、ものすごく甘美な響きだと思う。

 自然とテンションが上がってくる。


「うん。内容はまだ教えないけどね」

「じゃあ速攻で終わらせます」

「……あ、あんまり早く終わらせられても困るけど」

「はぁ」


 取り敢えず、ほどほどに宿題は進めておくか。


 里奈さんはスススッと距離を詰めてくると、俺の右手に左手を重ねた。


 甘ったるい柑橘系の香りが舞い、俺の鼻腔を刺激する。

 ドギマギしていると、里奈さんはチラリと俺を一瞥して。


「この前、唯香が拓人くんの家に来たんだよね?」

「あぁ……はい。きました」


 唯香がウチに来て、あの日に起きたことは里奈さんに話してある。


「何もなかった、よね?」


 その瞳は憂いを帯びていて、声には不安が乗っていた。


 特段やましいことはしていないし、もちろん、する気もなかった。


 だって俺は、里奈さんのことが好きだから。


 今更、唯香とどうこうなる気はないのだ。


 ただ、俺の気持ちが里奈さんに伝わりきっていない証拠だよな。


 俺は里奈さんの手を強く握り返す。


「俺が好きなのは里奈さんです。里奈さんを悲しませることは絶対しません」

「……っ。そ、そっか。じゃあ安心だ……」


 里奈さんは頬を上気させると、こつんと肩に頭を乗せてくる。


 俺は俺で、里奈さんの頭を撫でようと手を伸ばす。


 ──と、そのときだった。


「お姉……あ、拓人きてたんだ」


 突然、部屋の扉が開いた。


 そこから顔を見せたのは唯香だった。

 夏休みだからかラフな格好をしていて、寝癖もほとんど直っていない。


「か、勝手に入らないでよっ。唯香」


 里奈さんはただでさえ赤い顔をさらに赤くすると、ぱくぱくと金魚みたいに口を開く。


「んーっと、まぁ、ちょうどいいや」

「私の声、届いてないのかな! 勝手に入るのやめて!」


 里奈さんが涙目になる中、唯香は努めて淡々とした様子で。


「あぁうん、ごめん」

「むぅ……。で、なにか用?」


 頬に空気をためてむくれた顔をする、里奈さん。


 唯香は一度呼吸を挟んで気持ちを整えてから、堂々と宣言した。


「あたし、お姉ちゃんに張り合うの、もうやめることにしたから」


 里奈さんはパチパチとまぶたを瞬く。


 きょとんとする里奈さんに、唯香はなおも続ける。


「お姉ちゃんみたいな超人と一々比べてたらキリないしね。あたしはあたし。だからもう、お姉ちゃんは気にしない」

「え、えっと、私はいつから超人になったの……?」

「自覚ないからタチ悪いんだよね。ま、いっか。とにかく、それを言いにきたの」

「ん? う、うん……?」


 里奈さんはいまいち唯香の発言を噛みきれていない。


 唯香は微かに口角を緩めると、一度、俺に視線を送ってきた。

 そして自分に言い聞かせるみたいに、確かな決意を宿して。


「あたし、これからは自分のこと好きになってみる」

「……そっか」


 俺は端的に一言だけ返した。


 唯香はこれまでずっと姉に対する劣等感に苛まれ、自分自身を肯定できなかったのだろう。誰よりも姉のことを気にしているが、姉と比べられるのが我慢ならなくて、姉よりも優位に立ちたいと拗らせていた。


 ずっと胸の内に溜め込んでいたものを俺に打ち明けたことで、心境に変化があったんだろうか。経緯はどうあれ、前向きになれたならよかった。


 人と比べたところで得るものは少ない。

 自分は自分、他人は他人だ。それが血のつながった親族だろうと、一々比べていたらキリがない。


「言いたいことはそれだけ。あ、そうだ。この家で急にさかったりしないでよ」

「さ、さかっ──唯香は一体、なにを言ってるのかなっ!」

「だってお姉ちゃんって淫乱じゃん」

「今のは聞き捨てならない!」

「空港で拓人にしたこと忘れたの?」

「あ、あれは……えと……」


 無許可でいきなり俺の唇を奪ってきたからな。


 たしかにアレは、淫乱と捉えることもできる。


 途端、里奈さんは勢いをなくし、語彙力をなくしていた。


 唯香は踵を返すと、こちらには振り返らないまま。


「でも、別に諦めたわけじゃないから……今だけ、譲ってあげるだけなんだから」


 聞き取れないくらい小さな声量でポツリと呟いて、唯香は部屋を後にした。


 里奈さんは真っ赤な顔でうつむいている。


 唯香の里奈さんへの執着が消え、姉妹仲はどうにかなりそうな気がした。

 俺が余計な心配をする必要はなかったみたいだな。



 にしても、去り際に唯香が言っていたアレは一体──。


 こめかみのあたりをポリポリと掻きながら、天井を仰ぎみる俺だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る