イラつく衛士長と明るい衛士。

朝、鉱山都市、南門衛士所——


「だぁからッ!ちゃんと確認しておけよって、俺言ったよなッ!」


 衛士所に響き渡る怒号、脳天に響く精神攻撃、それを放つのは南門衛士長リオン・ラースだ。


 衛士所内部のレンガ造りの壁を触れれば、微かに振動が伝わるほどの怒声だ。見れば衛士所出入り口に設置された観葉植物も微弱に揺れていた。

 ここは、諸人もろびと拒まずの人々の心の拠り所であるはずだが、そんな場所に似つかわしくない悪漢のような荒々しい金切り声が現出していた。


 だが、衛士所一階にいる人間は、殴打のような振動を肌で感じようが無反応だ。

 所属する衛士は何事もなく持ち場に歩を進めるし、一階左側のカフェテラスでは老齢ろうれいで落ち着いたマスターが戸棚のグラスを、そっ、と奥に押し込むだけ。目を逸らしてしまうようなタイト姿の受付令嬢も回転椅子に座るのみだ、強いて言えば、手元で立てかけた筆が揺れたこと以外に変化は見られない。

 所業は無常、移り変わりのないモノなど存在せぬとは言うが、皆この状況に慣れていた。


 衛士所中央に座する階段は、まるで処刑台への道、大口を開けた大蛇のように見える。

 衛士所二階で勤務する事務員のうち少数は、毎日鬱屈うっくつとした気持ちでおり、階段を上ることを躊躇ちゅうちょする者までもいるが、ほとんどは声を右から左に流している。


 ドカッ!と衛士長室の机が鳴る。

 リオンが無造作に、黒光りする革靴を机上に乗せた。

 おざなりでボサボサな頭髪を掻きむしった後に「申請出しとけよッ!」と、自身の秘書兼事務員であるエルピス・ドーラーに、無精髭ぶしょうひげを揺らしながら吐き捨てる。

 エルピスは一礼して、退室する。彼女も申請を終えれば日課の花壇の世話を行うだろう。


 後味の悪い衛士長室、その静まりに耐えかねたリオンは机の酒瓶を豪快にラッパ飲みした。

 うっとおしく耳障りな吐息を吐きながらも、空になった瓶で床下に音を鳴らせる。本日でもう十本目の酒だ。リオンの周辺は、アンティークが基調の大海に浮上するゴミ溜めの島だった。

 まるで整ったオーセンティックな世界に、一部分だけ乱雑なスラム街が上書きされたようだ。

 リオンの周辺以外なら、整理整頓された書棚、繊細せんさいまだら模様の花瓶、上質な毛皮の絨毯じゅうたん、部屋の入り口に設置されたかし製のハンガーラックは樹脂の光沢を帯び、掛けられた紺色の瀟洒しょうしゃなコートも値の張る物だとわかる。が、彼と彼の周辺が、清潔性の全てを台無しにしている。


 リオンが空瓶を、ことり、と設置した場所、そこには無数の酒瓶が転がっている。

 南門衛士所の最高権力者は、死人が墓から這いずり出るように手探りで未開封の酒瓶を探す。

 艶めかしい手つきで十年物のヴィンテージワインを取り上げた彼はその蓋を、ナイフでバターを切るように手刀で開けた。ふう、と息づき口元を綻ばせる。やはり、仕事中はぶどう酒に限る、とでも言っているかのようだ。

 親父臭いうめき声をあげながらも、筆を持った手は一切の迷いなく書面の上を踊っていた。

 二律背反にりつはいはんを体現したリオン、部屋の静寂はもうしばらく保たれると思われたが…。


「おっはようっございまーすッ!」


 衛士長よりもさらに一段上の声量がその部屋に響き渡った。

 庭先で優雅に紅茶を飲んでいたら、いきなり目前で爆弾が落ちたような感覚に襲われたリオンは盛大にむせ返った。リオンは鼻孔の鈍痛から涙を讃えた目で、入室した人間を睨む。


 深紅の髪にジョンブリアンの瞳、胴と頸椎けいついすねを守った衛士の正式鎧に身を包み、衛士長室に無造作に立ち入る彼の名はヒューズ・ドラコニス。都市の矛である衛士団団長ラテイン・ドラコニスの息子、つまり七光りだ。

 彼は快活な声で衛士長室の扉を勢いよく開いた。衛士長を不機嫌にさせたことなど構いなく、彼は言葉を続ける。


「今日も元気いっぱいですね!リオンさん!」


「てめぇ……」と、本日二度目の地震を起こそうとしたところで、先程の自身の行動に嫌な予感を憶えるリオン。


 首を不規則に動かしながらも、リオンは机の上に目を移す。いや、移してしまった。

 脳裏にその光景を思い浮かべてはいたが、理性がその受け入れを拒否する。

 何度もこれが幻であることを望み、彼は夢と現実を右往左往する。

だが、何度目を回そうともその凄惨な光景は、事実という無慈悲な釘で打ち付けられ変わりなく、ぶどう酒というカーテンで書類は紫苑しおんに彩られていた。


「ぎゃあー!俺の資料ちゃんたちがー!」


「暇なんで来ちゃいました!仕事ください!」


 無邪気に両手を差し出したヒューズに「今それどころじゃねぇんだよッ!」というどら声が。「ああ…」と、あまりの惨状に目を覆うリオン。あとは最後の数文を書き足すだけ、それだけですべてが終わったのに…。

 リオンはそのことに泥沼の中にいるような暗澹あんたんとした気分になる。


「困りごとですか?エルピスさんですね?エルピスさんの所に行けばいいんですね?」


 肩を落とすリオンを見て、現在衛士長が直面している問題を理解したらしい。

 恨めしい視線で訪れた衛士を見るリオン、彼はこれから自分に及ぶ心労に顔を歪めていた。


「お前のせいだ!見ろ、これを!どうしてくれんだ!」


 浸ったそれを目前のヒューズに見せる。それを見たヒューズは、自身が責任を問われているのだと気づき、不服だとばかりにジト目で転がる酒瓶を見やった。


「えー。でも仕事中にお酒を飲むのが悪いと思いまーす」


「良く考えろ?もしもこれがコーヒーだったらどうなる?俺悪くないだろ?つまりお前が悪い」


 合理には口八丁。正論を言われようとも、リオンはそれを頑として認めない。

 彼も伊達にここまで、この勤務態度で衛士長を続けていない。


 これまで何度も難癖付けられてきたが、そんな些末な出来事は幾度も乗り越えてきた。そう、これまでの連戦が確かに彼を強くしてきたのだ。

 これまでの修羅場で、リオンは対症療法として論点のすげ替えを身に付けたのだ。

 現状を逸らし、認識を誤認させ、あたかも自分は悪くないと傲岸ごうがんに叫ぶ。

 その偏重的へんちょうてきで図太く、憎たらしすぎて逆に美しいまである考えは、正常な思考をならす。

 大事なのはノリと勢い。

 声量を大きく、態度を大きくし、少し相手を脅せばすぐに———。


「わかりました!じゃあ、ここにあるお酒をコーヒーに替えればいいんですね!」


「いや、待て。それは違う」


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