人であり孕みし者、現れた後悔

(ああ)


 悲劇はまだ終わらない。異形にまた熱がたまる。

 その対象は仲間の死に憤慨している剣の衛士だ。


(あああ)


 少年はここまで諦めることなくあらがった。それは彼ら二人の衛士がいたおかげでもある。その二人を自分自身の手でほうむることによる絶望は計り知れない。


 そしてそれは放たれた。先ほどと同じく、人を殺す一撃、助かることのない理不尽、それは剣の衛士に直撃した。

 剣の衛士は空を舞い、その身体は先ほどの盾の衛士と同じ末路を辿り、都市に向かう。


(アアアアアアアアアアアアアッ!)


 目に映る悲劇、再形成された希望の崩壊、異界の容赦なき現実が少年を壊す。

 少年を包む異形は、彼の絶叫を喜ぶようにその肉体をさらに肥大化させる。


(ごめんなさいッ!ごめんなさいッ!ごめんなさいッ!ああッ!あああああッ!)


 少年が悲しもうと、異形は止まらない。少年を更に狂気の淵に落とすために更なる犠牲を追い求める。

 異形の肉体が、混乱していた増援部隊に突進する。


(もうやめてッ!もうこれ以上はやめてッ!)


 懇願する少年の願いとは裏腹に、異形は人々に襲い掛かる。

 仲間を彼方へと吹き飛ばされた衝撃は、都市の防人である増援部隊に混乱を招いていた。

 慌ただしい様子の集団の渦中かちゅうに猛進する異形。それに対応できた者がほとんどであったが、逃げ遅れた者が一人いた。

 このままでは異形は少年の正気を完全に破壊し、その四肢は世界を包み、大地を犯すだろう。


 そうなればすべては彼のモノになる。


 しかしその未来は回避された。集団の中で唯一冷静であった熟達じゅくたつの衛士が逃げ遅れた衛士を回収したからだ。

 熟達の衛士の号令の下、集団が彼を中心に陣形を形成する。

 盾は前衛で壁となり、その後方で鋭利な剣がその刀身を煌めかせえる。最後方では弓兵が矢をつがえ、熟達の衛士の合図を待っている。

 陣形の再形成の早さに、彼の統率力が伺える。


 異形の突進を壁となる盾が圧しとどめ、背後で剣を構えていた衛士が斬りかかる。直後、盾と剣が異形の頭部を中心に左右に分かれたかと思えば、そこに後方からの矢が降りかかる。

 矢による攻撃に憤慨した異形であったが、その身体は前方に進まない。

 左右から後ろに押し戻そうとする盾がそれを阻むからだ。そしてその盾は次第に頭部を包む。

 彼らとて、先ほどの大質量の触手攻撃を目の当たりにしている。それがいつ自身に飛んでくるかわからない。もとよりこの異形と押し合いなどしたくはないだろう。


 だが熟達の衛士は押し返すべきだと判断した。なぜなら異形が突進する先、彼らの後方には自分たちが守るべき都市がある。

 その条件が熟達の衛士の選択肢を狭めたのだ。


 だがこの対応手段は現状で最善といえるだろう。

 もしもこの異形に限界というものが存在するのであれば、この手段であれば鎮めることは可能だ。こちらは負傷せず、着実に攻撃によるダメージを与えている。

 触手による攻撃も問題ない。なぜなら‥‥。


 熟達の衛士はそれに気づき、声を上げる。それを聞いた集団は異形から一度距離を取り、盾達は異形の行動を注視し、回避または後方の味方を守るためその盾を掲げる。

 彼らが防御態勢に入ったその瞬間、立ち止まっていた異形は複数の触手を放った。

 触手は衛士達に当たることはなく、盾に吸い込まれた。

 熟達の衛士は先ほどの二度の惨劇で理解していた。この異形は攻撃をする直前、体表が流動することに。


 だがそれが分かったからといって安心はできない。いかに防御が可能になったからといって、先ほどの二名を彼方へと吹き飛ばした触手と同等のものを繰り出されれば、こちらは壊滅だ。そうでなかったのは幸運であった。


(うぅ‥‥ううぅ‥‥)


 少年は嗚咽を漏らす。自身の意思とは関係がないとはいえ、人を殺したのだ。そのショックから少年の抵抗する意思は砕かれていた。


 少年に出来ることはただ後悔することだけ。何一つ出来ることなどない。

 でもそれは当然だと思った。

 生前に世界に何かを残せたわけでもない。ましてや誰かに影響を与えたことすらない。

 ただ日々をのうのうと生き、社会と人々から乖離かいりし、苦を避け、楽に浸った。

 彼らにとってその姿は酷くいびつに映っただろう。こんな人間を誰が好いてくれるというのか。

 与えられたものを教授するだけで、傲慢にも何一つ還元しない。

 だから自身の今生での許される行動も、生前と変わるわけがない。

 ただ頭を抱え、うずくまり、行動を起こさず、世界など求めず、視界すら遮断し、息絶えよと。


(初めから無理だったんだ‥‥‥)


 視界の中で、増援部隊が幾度となく奮戦しているが、少年の気力はもうここにはない。

 そうしてすべてを諦め、視界を閉じかけた時、微かな救いが現れてくれた。

 少年は目を見開く。


 なんと先ほど吹き飛んだはずの剣の衛士は現われてくれたのだ。

 彼の生存に感激するが、即座にまたそれは沈んだ。

 剣の衛士の横に立っている一人の人間、それは自身と戦った盾の衛士ではなかった。ということは、彼はもう‥‥‥。


 そんな剣の衛士と現れた新たな一人の増援に、熟達の衛士が動揺する。 

 感情の変化のない少年とはえらく対称的だ。

 熟達の衛士は即座に指示を出す。


 その行動に少年の理解は追いつかなかった。


 なんと彼らは道を空けたのだ。そのもう一人の増援へ差し向けるように。

 そして障害のなくなった異形は彼へと突撃する。

 それに少年は絶叫する。


(もう嫌だッ!もう殺したくないんだッ!やめてやめてッ!こんな…こんな…)


 異形がその人間に迫る。少年は彼を視認する。


(こんなことなら…)


 少年はその人間に期待などできなかった。

 その身体は筋骨隆々きんこつりゅうりゅうで頼りがいのあるものではない。通常よりも肉付きが良いくらいか。


(こんなことになるなら…)


 髪も整えられず乱れ、着ている服装は正しておらず胸元が見えている。

 そんなダメ人間のような見た目の者に何ができるというのか。

 そのだらしない人間は右拳を握り、振り絞る。

 あいつらだって武器を持って相手をしていたんだぞ。イカれてる。


(生まれてなんてこなければよかったッ!)


 その願いは至極真っ当だ。誰だって好き好んで他人を傷つけたくなどない。

 だが願ったからといってもう遅い。


 ビキリ‥‥‥‥


 破砕音が少年の脳に伝わる。

 その衝撃はよく知っている。生前に何度も体験した。

 強者から弱者に振るわれる暴力、理論も筋道もない、ただ意思だけで振るわれる冷たき力。

 何度も嫌気が差した力、何度も嫌った力、何度も恨んだ力。

 それがまさか異世界に来てまでついてくるとは…。


 (…⁉……⁉………⁉!!⁉?⁉?⁉⁉!)


 ただ少年にとって予想外なことがった。それは立場が逆であったこと。

 だらしない人間という強者から、異形の弱者から振るわれた暴力であったということだ。


 少年は空を仰ぐ。せっかく異世界で見た初めての空が、こんな汚い視界だなんて。


 少年の理解が追い付かない。先ほど彼らにあれほどの危害を加えた異形が現在横転しているのだ。


 数秒前、目前まで迫った人間は、その振り縛った拳をこちらに放った。

 比べるという行為も必要ないほどその体躯の差は明らかなのに、彼は迷うことなくそれを振り抜いた。


 少年は予言した。次の瞬間に挽き肉に変わる目の前の人間を。


 だがそれが現実となることはなかった。

 彼の拳が当たる瞬間、今まで伝わることのなかった痛覚が少年に伝わった。

 生前感じたことがないほどの痛覚に、少年は視界を明滅させていた。


 それを傍から見ていた人間はさぞや驚いたことだろう。いや、彼らにとっては特段驚くことでもなかったのかもしれない。


 まるで物理法則が歪んだように、小さき者が巨大な者を、無手で圧倒したことを。

 少年の視界で空が輝く。

 それを認識した時には、視界の下には矢が刺さっていた。

 おそらく弓兵が露わになった腹部に攻撃を仕掛けたのだろう。

 しかし、弓による痛覚はない。それがさらに少年を混乱させる。


 そんな慌てふためく少年の背筋を寒気が駆け巡る。

 いつの間にか異形の腹上に移動していただらしのない強者が、振り上げたかかとを、突き刺さった矢に振り下ろそうとしていた。

 少年は異形の体内で自身の腹部を見る。そこには異形より突き出た矢尻の先が少し見えた。


(待っ———)


 これだけの材料が揃えば、少年にも次の出来事が理解できる。

 少年の制止が、だらしのない人間に聞こえるはずもなく、その鋭利な踵は降ろされた。


 踵は異形の腹部に突き刺さる矢を、杭を打つ要領ようりょうで打ち込み。少しはみ出ていた矢尻は異形の肉を抜け、少年の腹に突き刺さる。


 腹部に走った激痛は、これまで体験した非日常による影響か、容易に少年の意識を刈り取った。


 核となる少年の沈黙に付随したのか、異形もばたつかせていた手足を手に降ろした。少年は朦朧とする意識の中で、自身の運命に呆れていた。

 何が夢見た異世界だ。何が物語の主人公たちのようになりたいだ。結局は変われない。

 自分が成ったのは彼らのような正義ではなく、醜い悪だ。生前と変わらない。

 こんな劣個体は早々に命を終えるべきだったのだ。

 なによりもう誰も傷つけたくなどなかった。

 少年はその事実から逃避を望み、すべてを終わらせようと瞳を閉じる。その刹那、彼の脳内に神託が響く。


〝『私が宣言しよう。君は誰よりも幸福になれる』〟


 その言葉に少年は手放しかけた意識を取り戻す。

 自身の愚かさが嘆かわしい。そんな言葉でこうも諦めが悪くなるのか。


 その言葉に保証はない。なによりこんな能力を与えたあのクソ野郎の言葉だ。

 だが仮にも奴は神、世界を収める天上の者だ。

 そんなあいつの言葉を信用するなら、その結末を知らずにここで命を終えることに少年は納得が出来なかった。


 数分の沈黙から少年は息を吹き返す。都合のいいことに少年の生きたいという意思に、異形は反応してくれた。…もしかしたら異形自身も死にたくなかっただけかもしれないが。

 突然行動を起こした異形は腹上にいる強者を振り落とし、逃走を試みる。

 その行先は、都市とは反対方向である大森林。

 手足の位置を不規則に入れ替え、最短経路で森林へと入った異形は進み続ける。


 追手がない。衛士達は異形を見守るばかりだ。

 都市への攻撃がなくなったと分かったからなのか、森林内部を警戒しての事なのかはわからない。


 異形は命からがら、森林に身を隠した。

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