すがりつく救いの手

大森林、奥地———


「はあ、はあ、はあ———」


 そこに異形の紛い物があった。人と怪物の境界、人ではなく怪物でもない。

それに目的地はなく、ただただ走るのみ。逃げるように、隠れるように走り続ける。


 驚くことにその異形は徐々に人間になりつつあった。身体の端々にある黒いヘドロのようなものが、身体を揺らすごとに零れ落ちていた。

 それは先程まで鉱山都市と呼ばれる街、人界を強襲した者の正体。

 怪物であった頃の肉体駆動は起こせず、逃走速度はみるみる落ちていた。


「あ、ぐう———」


 万全であった頃の身体能力はもはや見る影もなく、つまづき転ぶ人間。

 少年は人間に戻ったことによって怪物時に受けたダメージが呼び起こされる。


「ガッ、ガハッ!」


 口からは血が零れ、もはや虫の息だ。少年の腹部には矢が刺さっていた。

 最後に受けた一撃。そこで納得できた。

 怪物である自分が逃走した理由、怪物であった頃の自分は本体である自分に危険が及んだため逃走を開始したのだ。


「だれへぁ、たすけ———」


 少年は助けを求めるが、そこは森の奥地。人が通らぬ未開の地。人間がいるはずがない。

 瀕死ひんしの人間はそれを理解する。


(ああ、いやだ。こんな終わり方。僕は‥‥僕はまだそれを見ていないのに)


 人間は心の中で悔いる。夢を達成できない、望みを叶えることができない。与えられたものと言えば、発動条件が外傷を受けることの異能とここまで来るのに感じた痛みだけ。

 しかもその異能まで発動するとひどい目にあうと来た。


(僕はただ‥‥幸せになりたかっただけなのに)


 生前の世界はそうではなかった。だが死後の、この世界ならもしかしたらと考えた。だが、実際に感じたものは苦痛だけ。幸せなどどこにもなかった。


(僕は幸せになれないのか‥‥何度生き返ろうとこうなるのか‥‥)


 少年は生に絶望する。このような苦痛を、精神への傷を、生きている限り与えられる。

 それは良い、生きているなら当然のことである。だけど、その対価として幸せにすらなれないのなら自分の生きている意味は‥‥。


 少年は生きることを諦めようとする。だが心のどこかでまだと、もしかしたらと、夢想する。絶望はしている、しかし同時に希望を夢見る。

 するとその望みが叶ったのか目の前に救いの手が、自分以外の人間が現れる。

 おぼろげな意識のなかで、重りと化した身体を動かす。だが身体はもう限界だ。なんとか動くことのできる手を伸ばす。だがそれだけの行動で自分の意識はそこで途絶えた。



                  ◇ ◇ ◇



 グツ、グツ、グツ———

 

 なんの音だろうか‥‥。


 人間は付近に生じた物音で意識を覚醒する。自身を包む暖かさによって再度微睡まどろみに身を投げようとしたが、周囲の状況が不明であるという不安が彼を引き戻す。

 重いまぶたを持ち上げる。目線だけで周囲を確認する。



 木製で出来た天井、壁。自分は室内にいるようだ。目測であるがあまり大きな建物ではない。窓の外を見ると木々の幹が見えることからあまり高所の場所でないこともわかる。


 音がする方に目を向ける。だがそこは壁に阻まれ一部分しか見えない。

 吹き抜けの部分から臭いが流れ込む。その香りは鼻孔をくすぐり、空腹感を掻き立てる。

 こちらの世界に来てからまだ何も腹に入れてなかった。

 その音によって、家中の者に気づかれるのではと考え、慌てるが腹の音で気づかれるはずがないと落ち着く。


 隔てりから頭を出し、壁の向こうに目を向ける。

 そこには後ろ姿だけであるが、一人の女性が立っていた。黒い装束に長い黒髪、その長い黒髪は一本一本がさらさらとしており、まるで絹細工であるようにきれいだった。

 おそらく女性だろう。これで振り返った実は男でした、なんてトラウマになってしまう。女性であってくれ。僕はそっちの人ではない。


 その人物の前には鍋がひとつ。臭いはおそらくそこから発生しているのだろう。

 この状況、向こうの世界で経験がある。正確には見たことがあるが正しいが、こういう森の奥地にある家は魔術師、魔女、怪物の家というのが定番だ。

 そしてそれらの可能性を持つ彼女の目の前にある鍋、想像するにあの中には恐ろしく、そしてドロドロな紫色の液体が入っているに違いない。

 童話でもよくある話だ。


 森の奥地で、女性がたった一人で、人目を避け、何かをしている。

 誰もわざわざ悪事を人前ではしないという当然の思考が少年に駆け巡る。

 その可能性に少年はこの場から逃げ出したくなった。


 だが焦ってはいけない。この状況で焦った人々(物語の中)は例外なく餌食となっていったのだ。いくら周りが普通の民家に見える家だからって油断はできない。外側は取り繕っても、地下には恐ろしい工房、壁の中に危険な罠があるのも定番だ。ここは相手の反応を見て冷静に行動しなければ。


 すると目の前の家主はこちらに振り返ることもなく声を掛ける。


「‥‥そんなところで隠れてないで出てきなさい。バレバレよ」


 もう作戦が失敗してしまった。この家のお尋ね者はおとなしく姿を現す。この状況で隠れ続けて良い目に合うとも思えなかったからだ。


「ちょうどよかった。お腹空いてるでしょう?さっきお腹もなってたし!」


 さっきの腹の音までばれていたらしい。この家主は相当な使い手のようだ。決して僕の腹の音がでかすぎたわけではない、そのはずだ。

 それよりも、それよりもだ。


「‥‥‥‥‥‥」


 僕はその家の振り返った家の主を正面から見据え、言葉を失った。

 

 彼女が男だったからでもなく、醜悪な姿をしていたからでもない。その逆だ、彼女の姿はあまりにも美しく、その姿に目を奪われ、言葉を失ってしまったのだ。


 端正に整った目鼻立ち、とてもきれいで済んだ色をしたガラス細工のような青い瞳、見る者を魅了する佇まい。そのすべてにおいて完成された個体であると豪語するような艶やかな美しさに少年は呼吸も忘れ、見つめていた。


「ほら、こっち来なさい!ほらほら!」


 室内の中央にあったテーブルの椅子の縁を持ち、引き寄せる。そこに座るように縁を叩く。たったそれだけの動作だけで、もう少年は彼女に心を奪われていた。


 そうなってしまえば逆らうことも、これが罠だと考えることもできない。自然とその考えを忌避してしまう。

 テーブルには先程彼女が皿によそった鍋の中の物が。彼女に魅了された少年は言われるままにそこに歩き出し、座る。


「はい!どうぞ!食べて食べて!」


 目の前にあるものを見て、その匂いが空腹感を掻き立てる。そこには湯気が立ち込める白いスープと、バケットに添えられたパンがあった。


 白いスープにスプーンを差し込む。スープにはとろみがあり、ある程度の重力感が手に伝わってくる。どうやらシチューのようだ。

 状況もわからず、彼女が笑顔と両手で指し示すものだから、すくいあげたものを口に運ぶ。すると口の中にまろやかな味わい、旨味が広がった。

 口内から脳へ、そして身体へとその温かさが広がる。その旨味が、その温かさが次から次へと体中に押し寄せ、憑りつかれたようにスプーンを持つ手を動かす。

 今度はシチューのなかにあった具材を口に放り込む。それはまるでシチューに呼応したかのようにその旨さを引き出す。


「そんなに慌てないの、逃げたりしないから」


 そんなことを言われてもおいしいのだから止まらない。たちまち皿にはすくえるほどのシチューはなくなった。僕はまだ足りないのかバケットの中にあるパンを持ち、皿に残った微量のシチューを残さず食べるためにかすめ取る。

 それを口に運ぶとパンとシチューの絶妙なマッチに唾液が口の中で溢れかえる。シチューは微量であるにも関わらず旨味を損なわず、パンは空腹への満足感を与える。

 ある程度満足したところで我に返る。

 さすがにこれは意地汚かったと思い、不安になって家主に目を向ける。だが家主は軽蔑するでも引くでもなく、にこやかに佇んでいた。


「良かった~。味に確信がなかったのだけど、そんなに一生懸命食べてくれてうれしいわ!」


 どうやら不快に思っている様子はない。むしろ喜びすら感じられる。

 経験はないが、料理を作った人間はこの意地汚い光景を見て喜ぶものなのだろうか。

 皿もバケットも空になり、夢中になるものは腹に収まった。満腹感が心地よい眠気を誘う。今眠れば最上の安眠を貪ることができるが、それはできない。僕はここがどこかも知らない。目の前の家の主によそよそしく尋ねる。


「あ‥‥あの、ここは?」


「ん?」


「僕は…倒れていたはずじゃ…!」


 自分から出てきた言葉で思い出す。


(そうだ!僕は傷を負って、そして…)


 少年は最後に見た光景を思い出す。傷を負った自分は朦朧もうろうとする意識の中で助けを求めた。そこには誰かがいたはずだ。自分はその者に手を伸ばした。


「もしかして、あなたが‥‥うっ!」


 腹部に生じた痛みに顔を歪める。そうだ、そうだった。僕は傷を負ったから倒れたのだ。体を座ったまま横に向け、そこに視線を向けると手当されたのか血が滲んだ包帯が巻かれていた。


「傷が開いちゃった?ごめんね!…おかしいわね?ちゃんと治癒は掛けたはずなんだけど…」


 家主は少年の正面に回ると、しゃがみこんだ。

 いきなり目の前で美女が現れるものだから、心臓の鼓動が速くなり、息をしかめる。

 彼女は少年の腹部に手をかざす。すると手から黄緑色の光が出現した。光はとても暖かくとても安心した。そして少し待つと痛みはたちまち引いた。

 彼女は満足そうに腰に手を当て、胸を張る。その動作が可憐であったため、またも視線を奪われる。


「よしっ!これでもう大丈夫!」


 少年は彼女を見て先ほどまで考えていた自身の考えが核心に変わる。

 もはやこの目の前の美女が敵であるかもしれないという可能性はなくなっていた。

 少年は、自分を治療してくれたのだから、そう違いないと考える。


「あの…ありがとうございます。僕を助けてくれたんですね」


「ええ、いきなり出てきて倒れたんだから。ビックリしちゃった」


 彼女は間を置かず答える。やはりそうだったか‥‥。

 そして彼女の行動とその手で起こした軌跡で、ある推測が浮かぶ。


(森の奥地で人間には起こせない軌跡を行う…定番だけど…)


 その推測の成否を知るために彼女にまたしても問う。


「‥‥あなたは…魔女?ですか?」


 生前、子供の頃に見た子供向けの映画を思い出し、その推測に至った。

 この言葉を受け、仮称魔女は表情を変える。その顔には先程のやさしさなど微塵みじんもない。冷酷な、残酷な、恐ろしくもやはり美しい表情に変わる。


「…そう、やっぱりあなたもなのね。私も過去にすがって…らしくないことをしたわ」


 彼女は立ち上がり、少年の顔に手をかざす。


「私を魔術師ではなく魔女と呼ぶということは、あなたも奪いに来たのね。それとも近づけば勝ち目があるとでも思った?ならそれは無駄よ」


 彼女の雰囲気が変わったことに驚く。少年は、何かは分からないが、彼女の逆鱗げきりんに触れてしまったことを理解した。

 そのことに慌てて自身の潔白を証明するためにこれまでの経緯を正直に話そうとするが、一度口をつぐんだ。


(だけど…それで本当に助かるのか?…いや、悩んでいてもしょうがない!)


「ち、違います!僕は何も知らない!僕はただ死んで……それから神に生まれ変わらせてもらって…」


 両手を前に突き出し、彼女を止めるように促す。一方彼女は少年の話を聞き、怪訝けげんな顔をする。


(だ、大丈夫かな?まあ誰だってこんな話をされたらこうなるか。僕だってこんな話されたら信じるわけがない!…ああ、でもどうしよう⁉手からなんか出てるし、鼻が火傷しそうだ!)


 彼女の手から放出されかけている熱量によって焦りが生じる。


(今から別の言い訳を考えるか?…だめだ!そんなこと今すぐになんて思いつかない!)


 焦りが冷静な判断を阻害する。思考できないため無意識下に出る言葉を並べる。


「それで森の奥地に飛ばされて、それでけ‥‥もの‥‥に」


 彼は自身の言葉で気付いた。獣に連れ去られ、三首の獣に捕食されかけて、それで…。


「そ‥‥うだ、僕は‥‥‥怪物に」


 途切れに途切れに言葉を吐く。憶測だが自身は外傷を受けたことによって暴走する。もしも今ここで彼女の攻撃を受けて、傷を負ってしまえば…‥。


 少年は最悪な予測をして、か細い悲鳴を上げる。もしも自分が怪物になって彼女を傷つけてしまえばと。制御の利かない身体に姿を変え、人間の姿に戻った時、彼女が自分の足元に転がっていたら…。

 そこからの彼の行動は早かった。即座に扉に向かい、室外に出るべく走り出す。見たところこの建物もあまり大きくはない。なにより扉はすぐそこに見えていた。


「ちょ、ちょっとあなた、待って!……うっ!」


 苦悶くもんの声が聞こえた。心配になったが、自分が彼女の近くにいること自体が不安だ。

 外に出て、目的地もなくまた遠くに逃げる。しかし心の片隅に先ほどの彼女が発した声がこだまする。


(ダメだ!振り返ってはいけない!逃げろ!逃げるんだ!取り返しのつかないことになる前に!どこか!遠くへ!)


 しかし逃亡者の決意は弱く。一瞬閉じかけていた扉に目を向けてしまった。

 そこには…。

 何もなかったのだ。

 先程までの彼女はいない。

 その代わりに視界の下方にある手が一つ。

 振り返るのをやめて前を向く。今見た状況を察するに彼女は追ってこない。今のうちに早くここからはなれなければ。


「はあ、はあ、はあ」


 今いた建物を離れる。


(ごめんなさい!ごめんなさい!)


 心の中で謝罪する。それは自分を助けてくれた彼女に、見ず知らずの自分に手を差し伸べてくれた彼女に、この世界で自分に初めて暖かさをくれた彼女に…。

 いやだからこそ少年は自身があの場に居てはいけないことを決意する。


 息が苦しい。

 だが止まらない。

 生前に運動なんてものはしてこなかったせいかすぐに息が切れる。

 だが止まらない。

 なりふり構わず薄汚い咳を吐きながらも。

 だが止まらない。


 愚者は逃れるように森の奥地を駆ける。




 

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