喩えそれが君でなくとも
大森林、奥地、魔女の家、夢の中———
懐かしい景色が見える。
とても大切で、捨ててはいけなくて、抱えなければならない記憶。
魔術師達が集まる魔術の学び舎、その一室の教室。そこには学友達がいたが、顔は思い出せない。皆、顔に靄がかかったように歪んでいた。
だが視界の中心だけ
周りなどお構いなし、ひたすらに本と向き合っている。
その景色を見て、自身の状況を再確認する。
そうか、私はここまで思い出せなくなっているのか……。
何千年と生きてきたわけではない。人間の記憶とはこうも簡単に霞むものなのか。それともそれほどまでに私にとって彼らはどうでも良かったのか。
………もしかすれば私の〝魂〟はここまでだったのかもしれない。
仮説を終え、視線を夢の景色に戻す。
そこからはひたすらに本の虫である女の子を眺めるだけかと思ったが、変化は起きた。
女の子の背後に男の子が現れた。
夢の外で、突然倒れた私を気遣っているだろうあの子と、同じ黒髪の男の子。
男の子は読書中の女の子の背後に回ると、自信の顎で女の子の頭頂部をぐりぐりしている。女の子はもちろん怒る。その後は男の子から離れるべく逃げる。
しかし、男の子は逃がすまいと追いかける。そこからは追いかけっこ。
その男女が教室を走り回る様子に笑いがこぼれる。
またかよ、でたでた、いつものね、と察したように笑う人々。
まさかこの日常が、あのいやがらせが今になってこんなにも愛おしくなるなんて…。
大丈夫、私はまだ大切なものを忘れてはいない。
景色はそこまで、浮遊感が私を包む。目覚めだ。
◇ ◇ ◇
目を覚ます。エリナは自身の状態を確認する。それは学生服ではなく黒いドレスに、短かった黒髪は長髪に、魔術師見習いではなく魔女の姿になっていた。
周囲を見回す。どうやら自分は丸一日眠っていたらしい。
外は夜だった。いやもしかしたら数時間か、それとも数日たっている可能性もある。
いやそれよりももっと重要なことがある。彼がいない。
ベッドのサイドや下、掛物をどけてもどこにもいない。キッチン兼ダイニングも見たがいなかった。
しかし、窓の外から光が見えた。まさかと思って室外に向かう。
「……」
扉を開けて外に出た魔女は、視界に入った景色に驚く。
そこにはゴオの手で生み出された魔術、各属性にきっちりと区分され、宙に四等分された円状の魔術塊ができていた。
世闇に浮かぶそれは、幻想的な月のようで、現実の物より美しかった。
彼は自分が教えていた魔術を完成させていたのだ。
しかし疑問だ。風呂場で彼を調べたが彼には魔力が無かった。普通なら魔術など使えない人間だ。なのに彼はこうして魔術を使えている。
(魔術の創造?魔力がないから魔術式ではないはず。まるで突然現れたような……)
扉の前で立ち尽くし、考察している間にゴオはエリナの存在に気付いた。
「エリナさん!」
ゴオはエリナを視界に収めると慌てて駆け寄る。彼も余程心配していたようだ。
いっぱい甘やかさなくちゃ。
その欲望を一瞬止める。いけないいけない私は今、師匠だ。威厳が大事。威厳大事。
今更威厳もクソもないだろうと思ったが、形だけでも取り繕う。
「大丈夫なんですか?!急に倒れて、心配しましたよ!」
「ごめんね、もう大丈夫だから。……出来るようになったんだ?難しかったでしょう?」
「はい、今さっき出来るようになりました。一晩中かかっちゃいましたけど・・・」
彼の発言からエリナは自身が眠っていたのは一日だと魔女は気づく。いや今はそれよりも彼の発言の細部が気になる。
「一晩中?もしかして私が倒れてから?ずっと?」
「はい」
「……」
「エリナさん?」
「……」
黙り込む師に、またも意識を失ってしまったのかと、不安が呼び起こされる弟子。
だがその不安は杞憂で、目の前の彼女はただ自身の内より湧き出る激情を抑えているだけなのだ。
(落ち着け、私は師匠だ。弟子に容易に抱き着くなど……今更だけど抑えよう。ここは師匠らしく、弟子の頭を撫でるくらいに抑えよう)
この目の前の弟子は健気にも、私の教えを一晩かけて行っていたのだ。それを褒めたいが彼女の師匠としての理性がそれを抑えた。
彼が抱える問題の為にも頼りがいのある大人を演じなければ。
「実はエリナさんが心配で眠れなくて…それで魔術の練習を」
(あ、師匠の威厳とかどうでもいいややっぱ褒めなきゃ)
彼女はすべてをかなぐり捨て、目の前で照れ臭そうに頬を掻く弟子に飛びつく。彼の顔を胸に引き寄せ一心不乱に抱きしめる。
「あ~も~、あ~も~ゴオくんほんと可愛い、健気すぎる!一番弟子!」
彼女の感情は留まることを知らない。弟子の頭をわしゃわしゃと撫でくり回す。
「すごい!すごい!すごい!……?」
だが、エリナはその人物らをすぐに捉えた。
人の出入りの少ない獣道であるから当然ではあった。
「だれ?あなたたちは」
ゴオを背後に移動させたエリナの言葉に、その場に訪れた二人の人物は足を止めた。彼女らは、異様な雰囲気を纏わせ、第一声を上げる。
「・・・魔女さん、そう焦ることはないよ。わたしたちの目的はアナタじゃない」
そう言ったのは、紫苑の装束に身を包んだ女だった。
その声音にはあまり感情の起伏は感じ取れず、だが不思議とよく通った。
エリナは警戒心を緩めることなく、その二人に吐き捨てる。
「じゃあなに?こんな森の奥地にピクニック?えらく無用心なようだけど」
「うるせーな、ババア。おしゃべりに来たんじゃねえんだよ」
エリナの言葉をそう斬り捨てたのは、紫の装束を身にまとった人物の隣、もう一人の尋ね人であった。
こちらは対照的に、人相も悪ければ見た目も刺々しい女性であった。
蒼色の甲冑を身に着け、不機嫌さを滲ませた顔でエリナを一瞥していた。
人足の入らぬ森の中で、その二人はひどく歪に映る。
だからだろう、エリナも身構える。
ゴオを背後に隠した彼女は、声音を数段下げて警告する。
「じゃあ、早く去って。これ以上、ここにいると容赦しないわよ」
だが、侵略者たちはそれを聞き入れることはなかった。
まるで、冗談だろう、とでも言うように冷笑を浮かべると、
「ああ?それは無理な話だろ。だってよぉ・・・」
次の瞬間、甲冑姿の女性の姿が歪む。
いや、正確には霧散しかけていた。
彼女の輪郭は徐々に掻き消え、次の瞬間には完全にその姿を消していた。
ゴオもそれを視認していた。
けれど、周囲を見まわそうとも影も形もなくなっていたのだ。
そして、声だけがその場に響く。
「アタシらの目的はお前だ、ガキ」
ゴオの背後で、その声は発生していた。
慌てて振り向くと、そこには先程の女の上半身だけが存在し、拳を抜き手にして振り絞っていた。その狙い先は、言わずもがなゴオである。
死を覚悟した。それほどまでの殺気を、少年は向けられている。
その視線にエリナよりも早く気づいたゴオは、急ぎ回避を試みるが、その動作は抜き手の初速度と比べて、滑稽であるほど緩慢であった。
流れゆく視界の中で、徐々に余人の殺意が迫る。
歯がゆく思える時の中で、ゴオは己が死を悟り、瞼を強く閉じた。
「あん?」
死んだ、そう思ったゴオであったが、気たるはずの痛覚は訪れず、なんの異常も起きなかった。そうして再度に目を開く。
そこにはゴオの胸の直前で、蒼色の手甲が小刻みに揺れていた。
「邪魔すんな、魔女。つか、そもそもあんでお前ら一緒にいる?」
「言ったわよね、容赦はしないって」
青を身にまとう女性の手首を、エリナは汗一つ身ぜずに平然と掴んでいた。
「エリナさん・・・」
「ガ、ハッ・・・・」
師の名前を空虚の告げた時、背後より聞こえた苦悶の声に、ゴオは視線を戻した。
だが、そこには何もない。
それも当然、もう一人の侵略者は下にいるのだ。
目線を沈ませる。そこには四つん這いになり脂汗を浮かべた紫苑の女がいた。
「こ・・の、密度・・・やはり、・・・規格外ッ・・・・」
瞳は恐怖に、しかし表情は不敵に。
戦場の狂気を讃えた女は、のしかかる超重量に抗っていた。
荒ぶる豪気とともにその圧力を打ち破った彼女であったが、間隙なく脅威が襲う。
青筋を立てて呼吸を整える彼女に、青が迫る。
それはここに共に訪れた、味方の肉体であった。
鎧の女を、エリナはまるでピンボールを投げるがごとく放った。
襲撃者の姿が、瞬きの間にその場から消える。
「エリナさん、アナタは・・・・」
不安から、ゴオは師の名を告げる。巡る状況に、まだ整理のつかない彼であったが、自分が助けられたことだけは理解できた。
「ゴオ、大丈夫」
そんな縋るような彼に、エリナは安心させるように顔を綻ばせる。
「任せて!アナタには絶対に手を出させないから!」
そうして、彼女の肉体は視認すら追いつかぬ速度で前方に消える。
彼女は魔女、人々が恐れる恐怖の象徴。
ひとつの後悔を抱えた女である。
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