御先様 3
気付けば山のあちこちから聞こえていた音が静まり、代わりに男達の怒声が耳に届いた。
山狩りをしているのだ。
捕まれば殺される。いやむしろ捕まったときにこそ死なねばならぬが、今はまだ大浦に行くことを優先せねば。
やっと山の尾根に近づいてきた。けれど、ここから先どこから下りれば大浦なのか分からぬ。
迷っていると、遠くから「みつけたぞ!」と声が響いた。
わたしは声とは反対方向にきびすを返し、稜線の北側を目指す。
足も手も切れて血がにじんでいる。皮膚も破れて歩く度に激痛が走る。もう力一杯走るのは無理だった。自分が不甲斐なくて涙がいやでもにじんでくるが、立ち止まることだけはしたくなかった。
あともう少し行けば、あともう少し……、それだけを祈りながら歩を進める。
足下が冷たい。水気を含んだ落ち葉がヌルヌルと積み重なっている。今度は木の幹や枝に捕まらねば滑り落ちてしまいそうになった。登るときよりも道が険しい。尾根を目指していたときは前だけを見て進めた。いくら視界が悪くとも、目下の急峻な崖にたじろいでしまう。余計に足下を気遣い、下りる速さが落ちる。
声が近くなってくる。焦りがわたしの判断を狂わせていく。狼狽えながら恐怖に掻き立てられて必死で崖を下りていくが、濡れた落ち葉に足を取られて、あっという間に崖を滑り落ちた。
恐怖と混乱で悲鳴が漏れる。自分の狂乱を止めることができない。必死で木の枝を掴もうとするが、痛くて掴めず、枝は手をすり抜けていく。
誰も助け手などおらぬのに、救いを求めて金切り声を上げてしまった。
死ぬる覚悟すらなく逃げ惑うだけで、何の策も取れなかった。諦めの念が心を占めたとき、いきなり首が絞まった。ぐうっと喉が鳴る。息苦しさに手足をばたつかせた。
首根っこと髪を掴まれたまま、崖を引きずり上げられる。あまりの痛みに顔をしかめると涙が目元からあふれ出た。
ああ、死ぬる。殺すならば、早うせい!
わたしは喉が裂けそうな程に絶叫した。
「おお、活きがええな。姫とは思えんばあ躾がなっちょらん」
髪を掴まれたまま、地面に引き倒されて引きずり回される。
殺せ殺せ、とわたしは泣き叫んだ。
「おい、
「おう、山を下りるぞ。誰か背負うちゃれ」
手足を縄でぐるぐる巻きにされ、抵抗もできず、男の背に担がれて和田津に連れ戻された。
体の自由は奪われたが、口はまだ残されている。わたしは喉が枯れるほどの大声で「殺せ」と声を張り上げた。
次の瞬間、頬を乱暴に張り倒されて唇が切れ、鼻血が垂れた。
「黙れ」
横を歩いていた火丸がわたしの頬を何度も何度も張り倒した。痛みと張り倒されたことで頭が揺れて、気を失いそうになる。口の中に血が溢れてあぶくと一緒に流れ出た。
ずいぶん長い間、朦朧としていたら、不意に地面に放り投げられた。背から落ちて息が詰まる。かすむ目で懸命に辺りを見ると、遠巻きに和田津の者どもが見物していた。このざまを
「てふ様!」
だれかがわたしの頭を支えて膝に乗せてくれた。まだ頭の中が震えて、声は聞こえても視界が二重になって見える。
「てふ様、てふ様」
わたしの口元をだれかが拭ってくれている。この声はご住職だろうか。温かな滴りがわたしの頬に落ちてくる。ご住職が泣いている。まもなく死ぬるわたしのことを嘆いてくれているのだろうか。
「彦左殿と三郎殿が……!」
彦左と三郎がどうかしたのだろうか。そうだ、あの二人は逃げおおせたのだろうか。わたしが小屋で繕い物をしていたときは、多分海へ出掛けたと思う。あのまま崖沿いに泳いでいけば大浦だ。岩礁が多いと言っていたから、船では近づけないだろう。
「恒世に……!」
火丸の父親がどうしたというのか。
「首を……!」
声を詰まらせながら、ようやくそう言って、ご住職は嗚咽を上げた。
「彦左……三郎……?」
わたしは二人の名前を呼んで、辺りを見渡そうとした。不意に日が陰った。顔の上に何かがかざされた。ポタポタと滴る生温かな液体が、わたしの頬から鼻先に垂れた。ぷんと錆臭いような、魚をさばいたときのような匂いがする。視線を上に向けた。
火丸が、彦左と三郎の首を持って立っていた。わたしは驚いて声も出なかった。ようやく、事態が飲み込めたとき、思わず声が出た。
「嘘、嘘、嘘……! 彦左……! 三郎! 嘘、嘘じゃ、嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃ!」
縛られた縄をもがいて解こうとしたが無駄だった。
「嘘じゃない。ちゃんと見ろ。今からこれを宗順殿に描いてもらう。平家の奴らを
都を落ち延びて、ずっとずっとともにいた。今や兄とも言える存在の彦左と三郎が、こんな下衆に首を斬られるなど、あってはならぬ。決してあってはならぬことなのに、何故このような……、
「それにしてもきれいな顔がわやだ。顔を冷やしてもらえ。屋敷に着いたら、体も洗うてもらえ。新しい打衣も用意しちゅー」
何を言うておるのだ、この男は。殺すならば、今すぐ殺せ! 枯れた声で必死に訴えた。けれど、声はしゃがれて力も入らず、微かな吐息のように漏れ出た。
恒世の屋敷は惣領屋敷と呼ばれている。屋敷と言いつつ、粗末な家だ。その屋敷が山裾の急峻な坂にへばりつくように建てられている。
そこに連れていかれ、泥まみれ血だらけの体を漁師の女房達に洗われ拭われた。腫れてじんじんとする顔と、切り傷だらけ、マメの潰れた皮膚に軟膏を塗られる。
殴っていたぶるならば、傷の手当てをする必要などなかろうに。きれいな打衣も必要ない。
歩けないわたしを、男が負ぶって座敷に連れていった。恒世の女房らしき女が、わたしを支える。目の前にひげ面の恒世と、下衆な顔の火丸が座っていた。
「だれか話したか?」
火丸の問いかけに恒世の女房は首を振る。
「てふ、なんぼ京の姫といえども、こがな姿になるとそこら辺の
わたしは精一杯、火丸を睨みつけた。
「今は興が乗らんが、いずれ傷が治った頃、改めて相手をしちゃろうか」
火丸の顔が野卑に歪んだ。
わたしはこれを境に、惣領屋敷に閉じ込められた。
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