御先様 2

 宗順と過ごす時が、何よりわたしの楽しみであった。


 廻向寺のご住職から、早う戻ってこいと言う伝言をもらった、と告げられたときは、胸が張り裂けんばかりに痛んだ。


 戦に追われて、死ぬか生きるかと緊迫した時期を過ごし、あまりにすさまじい行路だったゆえに、わたしの心は少し死にかけていた。


 笑って喜んではしゃぐ楽しい感情や、泣いて怒って怖がる感情に蓋をされて、まるで忘れ去ったように自分を押し殺していた。


 一時かも知れぬが落ち着いた暮らしを味わい、宗順と過ごして行くうちに押し殺していた感情が、いつの間にか湧き水のように身のうちに溢れ出てくるようになっていた。


「わたしにもできることがあるじゃろうか」


 すっかり馴染んだ鍾乳洞の片隅で、わたしは宗順に問うた。


「ありますとも。そうでなければ彦左殿や三郎殿がここまでてふ様を連れて来ようはずがありません」

「でもそれは父上のめいじゃ。二人とも父上から全幅の信頼をされておったゆえ」

「ならば、思いつくところから始められたら良いかと」

「そうじゃな……」


 わたしにもできることがあると、それまで塞ぎがちだった心を奮い立たせて、正光寺のご住職からお借りした裁縫道具で、母上に教えていただいた繕い物をするようになった。


 残念ながら反物は高うて手に入らなかったが、ほころびた彦左や三郎の着物や、ぼろきれになったわたしの打衣うちぎを繕うことくらいはできた。


 暗くて湿った鍾乳洞の中で滴りのない場所に座り、わたしはみやこでの暮らしぶり、宗順は絵仏師の道に入ったきっかけを話した。いくら話しても尽きることがなく、わたしの打衣と水干すいかんの衣擦れを時折感じつつ、時が経つのも忘れて語り合った。


「それにしても、このほらは春先の寒い時期なのに温かいのう」

「夏は涼しく、冬は暖こうございます」

「彦左が申しておったが、この奥に穴が続いており、海と繋がっておるとか?」

「そうです。和田津では女神がいると祠を作ったようです」

「祠を……」

「てふ様は赤き蝶を見られましたでしょうか」


 宗順の言葉を聞いて、あのとき骸に群がっていた蝶を思い出した。


「鯨が流れ着いたときから現れたと聞いた」

「あの蝶は女神の御使いで、どうやら死んだものの体に生じると聞きました」

「不吉な蝶じゃのう」


 すると、何やら困ったような声音で宗順が答える。


「そうなのですが、女神様の御使いが現れると豊漁になるらしく、みな、喜んでいるのです」

「喜んでおるのならば、良いことではないか?」


 宗順はそれ以上答えることはなかった。ただ何かが心に引っかかっているような笑みを浮かべるだけだった。


「ではそろそろ戻りませんと……」

「そうじゃな」


 いつまでもこうして他愛ない話をしていたいけれど、いつまでもそのようにはしていられなかった。





 宗順が九相図を仕上げたのは三月も中頃になった頃であった。あまりに遅々として進まぬ宗順の仕事に和田津にある正光寺のご住職が強く催促をしたのだそうだ。


 そして、ご住職の希望のまま、赤い蝶を九相図に書き入れた。見せてもらったが、誠に美しい九相図であった。九相図を見物に来た和田津の者どももこの九相図をありがたがっているようだった。


「女神様のご利益があるようじゃ」


 宗順はそれを聞いて苦虫を噛み潰したような顔をした。宗順からしてみれば、それは邪まな考えであって、仏の教えからはほど遠いものだったのではなかろうか。


 出来上がった九相図は寺の本堂に飾られた。和田津の者どもは毎日のようにそれを拝みに来ると宗順から伝え聞いた。


 九相図はありがたく拝むものではない、あらゆる諸行のことわりの無常を悟るものなのだ。栄華も美も永遠には続かず、いつかは果て朽ちるもの。しかし、それがゆえにまた新しき命が芽生えるのだと宗順は言っていた。だが、赤い蝶が教えるものは、無常でもなんでもなく、暗い闇そのものなのだそうだ。豊漁をもたらしてくれるが、その実、虚無をも齎すのだ。


 それが、女神——和田津の者どもが崇める神のご利益だった。





「てふ殿」


 と、小屋の外から呼ばう声がした。


「だれじゃ」と問うと、正光寺の住職だと名乗った。


 わたしはそっと竹でできた御簾を上げた。


「逃げなされ。大浦に行けば、ここよりは安全でございます」


 逃げる? 何か大事が起きたのだろうか。そんなこと、わたし一人で決められない。


「彦左と三郎は……? 二人にも伝えなければ」

「無駄でございます。お二人とも、恒世が捕らえてございます」


 わたしの心に焦りと恐れが広がっていく。感情に呑み込まれないように押し殺した声で訊ねる。


「どういうことじゃ」

「土佐領の夜須七郎が、恒世に平家の残党がおれば首を差し出すように、命じてきたのです。もし、首を差し出せば、報償を出すと」


 わたしは息を飲むことすら忘れた。長らく忘れていた恐怖が背筋をぞわぞわと這い上がってくる。


「じゃが、二人を見捨てては……」

「逃げなされ。宗順もそれを願っておりまする」


 そうか、わたしは捕らえられれば命がないのだ。二人を見捨てねばならぬときが来たのだ。


「さぁさぁ!」


 ご住職に引っ張り出されて背中を山のほうへ押しやられた。


「山を越えたら、大浦でございます。今ならまだ間に合いましょう」


 逃げ切れるかも知れないから急げ、とご住職は言った。


 わたしは言われるがままに山道を必死で登らねばならなかった。道は道でも獣道だ。踏み固められた楽な道などない。


 土から木の根や岩が剥き出しの山道を、足を滑らせ躓きながら、懸命に這い上っていく。着ていた打衣が、見る間に茶色く泥で汚れていった。


 木の根や岩に手をかけて足場を探りながら進んでいく。手のひらにマメができ、それが潰れて痛くても、止まることなく進まねばならぬ。道が平らになれば、足が小石で傷つこうと立ち止まってはならぬ。


 日の光がまだ高くて、わたしの姿はどこからでもよく見える。彦左と三郎がおれば、きっとわたしに逃げ方を教えてくれたろう。


 目頭が熱くなって鼻の奥が痛くなる。めそめそと泣いている場合ではない。あのときに比べれば、わたしはずっと強くなったはずなのだ。


 そう言い聞かせながら、小走りで山頂を目指した。

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