御先様
御先様 1
九相図を描き終えたら、宗順は沖の島の
一度、思いを重ねたら、別れが辛く悲しいことだと思えた。とはいえ、廻向寺お抱えの絵仏師の彼がいつまでも九相図にかかりきることなどできず、いずれ別れはやってくることだと分かっている。
「てふ様、お手を」
宗順がわたしに手を伸ばして、急な山道から手を握りしめ引き上げてくれた。
眺めの良い場所があると言って、小屋から出る気が起こらないわたしを宗順が誘ってくれたのだ。
裏にすぐ山があるので、彦左がキノコや木の実、山菜を採りに行ってくれる。
正直に言ってしまえば、わたしはすることがないのだ。
ここは都で生活するのとはわけが違う。歌を学び花を愛でていればよかった頃とは違うのだ。わたしは藁や蔓を編むことも、ましてや彦左や三郎のように料理も何もできぬ役立たずだから。本当に二人には世話をかけている、と日々感謝しかない。
そして、宗順は小屋から連れ出してくれて、塞ぎがちのわたしを慰めてくれる。
「足下にお気をつけ下さい」
力強い手がわたしの手を握る。こんな山道を登るのは久方ぶりだ。だれかに負ぶわれたり、籠に乗せてもらったりして山越えをした頃のわたしとは思えない。ずいぶんと体が丈夫になったのは皮肉だ。
「ふう」
ようやく前方が開けてきた。わたしは滴る汗を手の甲で拭う。
太陽の光が宗順の背を照らし、顔が陰になって見えない。
目を細めて、きっと歯を見せて笑っているのだろう。その顔が太陽よりも眩しく感じられる。わたしも釣られて笑顔を作ってしまう。
少し前、宗順が不思議な形の石がたくさん生えた、山の洞窟に連れていってくれた。暗い洞窟の中に入ると、途端に暗闇に包まれた。
ともにいると妙に恥ずかしくなって、握られた手を振りほどいてしまった。そんなわたしに宗順はここが鍾乳洞だと教えてくれた。
わたしはとうに宗純を好ましく思っていたが、はしたないことだと思って黙っていた。いずれ、この島から去るときがくるだろうと心から信じていたので、特別な思いを吐露するのは賢明ではないと考えたからだ。
でも……。
「てふ様」
言われるがままに導かれ、足下の岩を踏んでゆっくりと登った。
「見てください」
足下から顔を上げると、そこは崖の上で、遠くの海の際に島の影を見た。見渡す限りの海で、気が遠くなりそうだ。
「あれは鵜来島ですよ」
「鵜来島?」
「鵜来島のずっと向こうには日向国があります」
「われらが目指していた場所か」
当初、わたしと彦左達は日向国を目指して幡多から海に出た。味方がまだいる土地から抜け出して、戦がわたしたちに追いつく前に、身分を隠して九州へ辿り着きたかった。そうすれば、死なずに済むと父上に言われた。
「良い眺めじゃ……」
最初、わたしは絵仏師は僧だと思っていた。
崖を登り切ったのに、宗順の手はまだわたしの手をしっかりと握っていてくれる。
何も言わずとも、わたしの胸の内を宗順は見破っているのかも知れぬ。
海鳥がそばをすり抜けて鳴きながら村へと飛んでいった。
ここから垣間見る村は本当に小さい。和田津の村には童も含めて二十人ほどしか住んでおらぬ。島の反対側にある大浦という村はやや大きいらしく、和田津よりも島民が多いそうだ。
ここでは皆、和田津という
宗順が迎えに来てくれなければ、決して小屋から出たくない。それが理由でわたしは小屋に閉じこもっているのだ。
「のう、宗順殿」
「はい」
「九相図はもう描き終えそうか?」
「まもなくですが、まだ何か足りぬものがあるゆえ、描き終えそうにございません」
宗順を振り向き、わたしは彼の顔を覗き込んだ。
「何が足りぬか」
「分かりません」
手と手を取り合い、肌に触れて、ただ海と空を望洋とする、それだけで幾時も過ぎてしまう。離れがたいが、いつまでもともにいることは叶わぬ。
「戻ろう」
わたしが言うと、宗順は従順に元来た道を手を繋いだまま戻った。
「またあの鍾乳洞へ行きたい」
「承知いたしました」
宗順が柔らかな声音で答えた。わたしはそっとはにかむ。明日はおそらく、宗順はわたしをあの静かな場所に連れていってくれるだろう。二人の声と息づかいだけが聞こえる、あの密かな場所に。
「てふ様、何やら村が騒がしゅうございますよ」
そう言って小屋に入ってきたのは三郎だった。
「なんじゃ?」
わたしと三郎は物見高い思いで、村境まで来た。木の陰から、海の岩場に目をやる。丸太の足場をかけている小舟のそばに何か浮いている。
「あれはなんじゃ」
三郎が眉の上に手をかざして、それを凝視した。
「骸でございますな。溺れたのでございましょう」
次の瞬間、三郎が「あっ」と小さく声を上げた。
「どうした」
「何やら、骸から虫が出て参りました」
わたしも手をかざして、小舟の脇に浮かぶ骸を見つめた。
赤い血のようなものが、骸にたかっている。それを見て、和田津の者どもが浮かれているのが分かった。
「何を喜んでおるのだろう……?」
三郎は骸を見つめたまま、浮かぬ顔つきで答える。
「赤き蝶でございますな……。骸に蝶が湧いて喜んでおるのでしょう」
赤い蝶は、ひらひらと舞い飛んでは骸にとまりを繰り返している。やがて骸は海の中に沈んでいった。
何やら、不可思議なものを見た。あのような蝶、山で見たことがない。
それから何度か、わたしはあの赤い蝶を見ることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます