御先様 4
辱めを受けて首を吊りたくとも、いつも和田津の女房どもに代わる代わる見張られて、京にいた頃のように下の世話を自分一人ではさせてもくれなかった。最初のうち、舌を噛み切ろうとして、猿ぐつわをかまされた。格子窓を両手で壊そうとして手を縛られた。口を塞がれて、腕も縛られ、横たわるしかない。
めそめそと自分の運命を嘆き悲しむことなどしたくなかった。隙を見て逃げ出し、命を絶ちたいと思っていた。
夜になれば、忌まわしい
口惜しい、憎い、そればかりを念じ、わたしの上に被さる火丸が死ねば良いと思う。得物があれば眉間に突き立ててやりたいと、睨みつける。その目つきが気に入らないと見えて、度々目隠しをされた。
いつまでこんな地獄が続くのか。いっそのこと殺して欲しい。いや、火丸と差し違えて死んでもいい。その代わり火丸を魚をさばくように切り刻んでやろう。
いつしか憎しみだけがふつふつと育っていく。隙を見て殺してやると思うようになったら、死ねなくなった。おとなしいふりをするのを学び、そのうち拘束が解かれた。
締め殺しの木が見える部屋に移された。柵で塞がれた小さな庭で、井戸と締め殺しの木だけがある。
閉じ込められているのは変わりないが、女房の監視も和らいで、自由が増えた。
笑いもしなければ泣きもせず、無表情のわたしでも火丸は気にならぬらしい。征服したい、支配したいだけだから、屈服するまでこの生活は続くのだろう。
我が身を嘆き悲しむだろうと和田津の者どもは思うていたようだ。ふてぶてしいツラだという者が増えて、時折柵の向こうから覗いてきてはわたしをはやし立てた。
幾月が過ぎても心折れぬわたしに、火丸は次第に飽きてきた。火丸の来ぬ夜が少しずつ増えた。どうにしろ、火丸にとってわたしは面白き玩具なのだ。最初の頃よりも今のほうが火丸はいつでもわたしを殺すのに躊躇はせぬだろう。いつでも殺せると侮っている。わたしはそれを利用しようと思うた。
ある日、男どもが小舟で漁へ出掛けてからまもなく、まだ日も出ぬ薄暗い朝に激しい雨が降り始めた。大粒の雨に打たれて、庭木や井戸の蓋がばらばらとうるさい音を立てる。
わたしは雨の音で目を覚まし、御簾を上げて外を見やった。
雨音が蛙の声すら打ち消すほどの激しさの中、微かにわたしを呼ぶ声がしたように思った。聞き違いかと御簾を降ろそうとしたとき、もっとはっきりとわたしの名前が聞こえてきた。
「てふ様」
屋敷の者ではない。和田津の者でもない。誰も今のわたしをてふ様とは呼ばぬ。懐かしいもの柔らかな声に、わたしはふらふらと雨に打たれるのも気にせず、庭先に出た。素足で地面を踏み、声がするほうへ近寄っていった。
憎しみ以外の感情が、わたしの胸の内に広がる。
柵の向こうに、宗順が立っていた。
「てふ様」
ずぶ濡れになった宗順が、昔と変わらぬ姿でわたしに会いに来てくれた。何故今更とは思わぬ。今だからこそ、宗順は来たのだ。
「こちらへ来て」
わたしが誘うほうへ宗順が歩み寄る。締め殺しの木の陰にある柵が実はいつでも抜くことができると、ずいぶん前から知っていた。
柵を抜き、わたしは宗順の胸に飛び込んでいた。彼もまたわたしの背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「てふ様に会いとうございました……」
しみじみと宗順は囁いた。
雨音がわたしたちの交わす声、息づかい、全てを隠してくれた。迷いもせずわたしは宗順に身を任せた。穢れた体を雨がきれいに洗い流してくれる。彼のゆびさきがわたしの全てを浄めてくれる。わたしの唇もしとどに濡れた髪も何もかも。
わたしと宗順の体は熱に火照り、冷たい雨さえも心地よく感じる。
けれど、長くはそうしておられない。柵を戻し、宗順と指を絡め合って次いつ会えるかと目で問う。
「雨の日に……」
火丸が小舟で海に出、世話をする女房がまだ来ぬ夜明けの雨の日にだけ、わたしたちは甘く切ない逢瀬を繰り返した。
月に一度の時もあれば、幾月も会えぬ日もあった。憎しみに強ばったわたしの心を、宗順が溶かし、癒やしてくれる。それがどれほどわたしを慰めてくれたか。もう二度と会えぬと思うていたゆえに、肌と肌を重ね合う瞬間が愛おしい。永遠に続けば良いとさえ思うた。
そんな折、月のものが滞り、やがて来なくなってしまった。何を喰うても吐き気しかせぬ。それを見た女房らが、火丸に告げた。
「てふが子を孕んじゅー」
「誠か、てふが子を成したか」
火丸は何人も女を囲うておるのに、今まで一度たりとも子が出来たことがなかった。捨て置いたわたしが孕んだことが存外嬉しかったと見える。
あれほど何日も放置していたというのに、私の腹の様子を見に度々来るようになった。
火丸の子ならば、わたしは腹を打って子を堕ろしていただろう。けれど、子の父が宗順であると、わたしは確信していた。
火丸が喜べば喜ぶほど、小気味が良かった。このまま産めば、火丸はそのことに気付かず、我が子として育てるだろう。火丸に隙が出来て、わたしと赤子は宗順とともに易々と逃げおおせることが出来るやも知れぬ。
十月十日、腹の子を慈しみ、大事に大事に扱うて、生まれてくるのを待ちわびた。
そうして、産み月を迎え、わたしは元気な男児を産み落とした。宗順とわたしの愛おしい赤子だ。
火丸は手放しで喜び、我が子だと騙され、赤子をかわいがった。
火丸に隙が出来た。時は満ちたのだ。
宗順は、赤子とともに逃げようと言うてくれた。ただ、海に囲まれた島のどこに隠れれば良いか分からぬ。大浦に逃げ延びればもしかすると引き裂かれることなく、平穏な時を過ごせるような気もした。
けれど、そうなれば火丸はわたしたち二人に容赦をせぬだろう。宗順とともにわたしも殺されて終わるのだ。もしも、赤子を我が子と思うていれば、わたしの子は殺されずに済む。
宗順がわたしの手を握りしめて、一言一言、強く語りかける。
「ともに逃げましょう。男達が海に出たときが好機でございます。大浦には淨願寺がございます。淨願寺のご住職ならば匿ってくださりましょう」
「でも、どうやって逃げるのじゃ。雨の日に逃げても、赤子がおると山を越えられぬやも知れぬ」
「鍾乳洞から洞窟へ抜けて海に出ましょう。引き潮の時ならば、洞窟が口を開けまする。そこに小舟を用意しておきましょう。あの洞窟には誰も来ませぬ。火丸も気付かないでしょう」
宗順は雨が止むのを待ち、満ち潮の時に洞窟を出て、大浦へ向かおうと言うてくれた。わたしはその約束を胸に、次の雨の日を待ち遠しく思うていた。
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