第9話 ひと夏の特訓

「母さん、しばらくの間友達の家に泊ってくるから!」


 俺はそれだけ告げると、返事を聞くよりも早く家から飛び出す。

 替えの服1着とタブレット、それから読みかけていた本と単語帳、日持ちしそうなパンやレトルト食品をカバンに入れ込んで出発した。なんだか遠足にでも行くような気分だ。


 裏山を登り始める。カバンがあるせいだろうか、いつもより足取りが重い。気持ちはこんなにも前向きなのに。早く、星川さんの待っているところへ行きたい。そんな一心で駆け上がっていった。


「ごめん、遅くなった!」


 勢いに任せて扉を開く。星川さんはベットではなく、机で俺の原稿とにらめっこしていた。


「ん、お帰りヒロ。親御さんは大丈夫だった?」

「うん。父さんはもう夜勤に行ったみたいで、母さんだけだったから平気だったよ。半ば強引に飛び出してきちゃったけど」

「それくらいしちゃっていいのよ。子供は別に親の道具でも何でもないんだからね」

「……そうだね」

「それと、はい。一通り読み終わって修正すべき箇所、赤ペンで印付けておいたから」


 そう言って原稿用紙の束を俺に返してきた。


「もう読み終わったの?」

「うん。これくらいの量なら1時間もあれば十分よ」


 その言葉で俺はずいぶん時間が経過していることに気付いた。窓の外を眺めると、既に真っ暗な闇に包まれており、月明かりと部屋の中央にぶら下がっているランタンの灯だけが辺りを照らしていた。


「どうだったかな……?」


 恐る恐る感想を聞く。ダメ出しされるのは百も承知なのだが、どうにもこうにも身構えてしまう。


「点数つけるなら50点といったところね。まぁ、及第点かな。けどね、前作よりは格段に良くなってる。それは自信を持っていいと思うの」

「ほんと!? 良かった……」

「全体で気になる点を挙げるとすれば、会話文が多すぎるってことかな。何か特段、そういう演出を用いたいときじゃなければこの割合は多すぎ。たぶん8割以上が会話文よ」


 確かにそうだ。地の文は書くのに非常に文章能力を必要とする。だが、会話文は別だ。いつも俺たちが日常会話でしているような内容をそのまま書き起こせばいいだけなのだ。またここで、俺の妥協が見えてしまったのかもしれない。


「じゃぁ、もう少し会話文を減らしてって感じかな?」

「いや、会話文はこのままでいいよ。すごく面白い。後は、読者が情景を想像できるように説明文を少し間に入れていけばいいかな」


 星川さんは淡々と指摘事項を述べていく。小説家でもないのに、なぜこんな的確な指示ができるのだろうか。きっと国語の点数は飛びぬけて高いはずだ。


「それとあと1つ、この物語は絶対に最後まで書き上げた方がいいと思うの」

「えっ……やっぱり最後まで書いた方が評価がいいのかな?」

「う~ん、それに関しては一概には言えないけれど。そこまで書き上げているなら最後が見たい。オチだっていい感じに決めたじゃない。ここでオチが分からないままむず痒いのも悪くはないんだけど、私個人としてはどんなオチになってたとしても最後までこの物語を見届けたい。それくらいこの世界に、没入できる作品なの」

「そんなにいい作品かな……」

「当り前じゃない。もっと自信をもって、ヒロ。最初のころの威勢の良さはどこに行っちゃったの?」


 まさか自分が他人の気持ちを揺れ動かすことができるほど、崇高な作品を作れるとは今の俺は到底思っていなかった。


「まともに小説を読み始めたのは星川さんと出会ってからなんだ。そこで、読んでみて初めて分かった。自分の作品がいかに稚拙で、表現力が足りていないってことを。だからそれ以来、あの時あった自信は消えていったんだ……」


 そうつぶやいた俺の顔を、じっと見つめていた。


「ねぇヒロ。ヒロはどうして私に出会ったんだと思う?」

「え?」

「きっと、ヒロと出会えたことは偶然なんかじゃないと思ってるんだ。何かしらの引かれあう力って言うのかな、それがちょうど重なったから出会えた。私はそう思ってるの」

「……」

「私ね、最初にヒロに会った時すごくうれしかったんだ。小説書いてるって聞いた時はもっと嬉しかった。だからね、私はヒロの考えた最高に面白い小説が読んでみたいな」


 星川さんは足をプラプラさせながらこちらをじっと見る。


「ふっ……」


 思わず俺は、笑ってしまった。


「何それ、まったく理由になってないよ、星川さん」

「いーの、とにかく私はあなたの書いた小説が読みたくて仕方ないんだから、書き上げて」

「……分かった。星川さんに喜んでもらえるような作品、書きあげる」

「うん。今日から24時間ずーーーっと一緒にいられるからね。みっちり特訓ね!」


 勢い良く立ち上がった星川さんは、迫るような気迫でこちらに歩いてきた。そして右手をゆっくりと差し出した。


「約束ね。絶対に私がヒロのことを小説家にしてみせる」


 その手を握るかは一瞬迷ったが、俺は意を決して掴んだ。


「うん、分かった。よろしくね、星川さん」


 こうして俺と星川さんの、ひと夏の特訓が始まったのであった。

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