第4話 お龍との再会
健と正雄は新選組に入隊することになった。
屯所は壬生にある八木邸。
八木家の始祖は八木又兵衛。壬生村の郷士。越前の戦国大名・朝倉義景の子。源頼朝より今の家紋(三つ木瓜)を拝領したと伝わる。室町時代に京の壬生に移ったとする。
八木邸のある壬生の地は水が豊かで農耕に適した土地であり、京都でも有数の農業地帯であった。八木邸は小高い場所に建てられた。幕末には江戸浪士の宿所となる。
文久3年(1863年)2月23日、浪士組として上洛した近藤勇と試衛館一門の7名、及び芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平山重助、野口健司らが投宿した。その後、浪士組の江戸への引き上げの際に残った芹沢鴨、近藤勇ら13名はそのまま八木邸に残り、同年3月16日「松平肥後守御領新撰組宿」と八木家右門柱に表札が掲げられる。同年9月18日芹沢鴨、平山五郎ら4名が八木邸奥座敷にて暗殺される。
土方歳三に話を聞いたら、沖田は芹沢たちとの戦いの最中に、平間に首を跳ねられてしまったらしい。
「あの野郎、逃げ足が速くて逃げちまった」
土方は相当苛立っているのか舌打ちした。
土方はこれまでのことを教えてくれた。
文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。
翌文久3年(1863年)2月、集まった200名あまりの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。
京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張した。
鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱隊した。殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。
壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸およびその周辺の邸宅を屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名あまりの集団となり、京都守護職の松平容保から、おもに不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。
4月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。
6月、大坂相撲の力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。
8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされる。一説として、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在するが、浪士組の名を記す風説書が多く残り、焼き打ちを行ったという説もある。
同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。
前途のように、9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。
「芹沢の奴、気に食わないとすぐに殴ってきやがった」
土方の話では芹沢は背が高くでっぷり太っており、色白で目は小さかったそうだ。豪傑肌の一廉の人物で、常に鉄扇を手にしていた。酒豪で、昼間から飲んでおり、酔っていないことはなかったと言われるほどであったという。
「芹沢と平山は酒に酔っていたせいか、倒すのは楽だった。お梅を殺しちまったのは少し可愛そうだったかな……」
お梅は芹沢の愛人だ。
京都西陣に生まれ、島原のお茶屋にいたといわれる。その後、四条堀川西入ルの太物問屋(呉服商)菱屋の妾になっていた。年の頃は22~23歳ぐらいだった。
壬生浪士組(新選組)筆頭局長・芹沢が菱屋から未払いのまま買い物をし、菱屋がたびたび催促するも支払われなかった。これ以上、催促することで芹沢との諍いを恐れた菱屋は、女ならばあたりも柔らかろうとお梅を催促へやった。お梅は垢ぬけて愛嬌がよい、隊士たちが評判にするような凄い美人だった。はじめ何度かは芹沢に追い返されたが、ある日、借金の催促に来ると芹沢に部屋に連れ込まれ手ごめにされた。最初は嫌がっていたお梅も、そのうちに自分から芹沢の元へ通うようになった。
その頃、壬生浪士組では芹沢ら水戸派と近藤勇ら試衛館派との間で主導権争いが起きていた。文久3年(1863年)9月16日(18日とも)、新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会をし、その日の暮れ前にお梅が八木家にやって来た。そのうち、水戸派の平間重助の馴染みの芸妓の輪違屋の糸里、平山五郎の馴染みの桔梗屋吉栄もやって来た、芹沢たちが留守なので吉栄や八木家の女中とお勝手で談笑していた。夜になって芹沢、平山、平間そして副長の土方歳三(試衛館派)が帰ってきた。そこで、お梅たちを呼んで酒宴の続きをし、泥酔した芹沢は奥の十畳間にお梅と寝入った。吉栄と糸里もそれぞれの相手と同衾した。
深夜、芹沢たちが寝ていた部屋に数人の男たちが押し入った。平山を殺害し、芹沢は切りつけられて起き上がるや真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、そこで刺客たちにずたずたに切り殺された。芹沢と平山を殺すと刺客たちはすぐに立ち去った。為三郎たちが芹沢の部屋へ様子を見に行くと中は血の海で、芹沢と寝ていたお梅は湯文字一枚をつけただけのほとんど全裸で血だらけで倒れており、首を切られて皮一枚で胴とつながっている状態であった。なお、これらは長州藩の仕業とされていた。
その後、幹部の芹沢と平山の死体は新選組が引き取ったが、お梅は引き取り手がなかった。芹沢との合葬案もあったが、近藤が局長の芹沢とお梅のような売女を合葬することはできないと強硬に反対した。お梅の死体は八木家に3、4日置かれたが、夏場のことゆえ長く放置もできず、菱屋と交渉するも「暇を出した」と相手にされない。困り果てた八木家が手を尽くして西陣のお梅の里へ引き取らせたとも、無縁仏として葬ったともいう。
「平間の野郎、下戸だったからな……誤算だった」
土方はその後、池田屋事件について説明した。
健は必死であくびを堪えた。
幕末の京都は政局の中心地として、尊王攘夷(尊攘)・勤王などの各種政治思想を持つ諸藩の浪士が潜伏し、活動していた。会津藩と薩摩藩による「八月十八日の政変」で長州藩が失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていた。尊攘派が勢力挽回を目論んでいたため、京都守護職は新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせた。
5月下旬ごろ、新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の存在を突き止め、会津藩に報告。捜索によって、武器や長州藩との書簡などが発見された。元治元年(1864年) 6月5日早朝、古高を逮捕した新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。自白内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。しかし、自白したのは自分の本名が古高俊太郎であることのみ、という説もあり、古高について述べられた日誌には自白内容の記述がされていないことから自白は本名のみであった可能性も高い。
これにより、尊攘派の浪士らが時をおかず会合を行うとみた新選組は、会津藩に報告のうえ徹底した市中探索を提案。5日夕刻、会津藩の援軍を待たず単独で三条〜四条方面の捜索を開始した。
亥の刻(22時ごろ)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見した。近藤隊は数名で突入し、真夜中の戦闘となった。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・山南敬助(史実では病欠。変わりに沖田が参戦してる)・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。屋内に踏み込んだ山南は奮戦したが、戦闘中に病に倒れ戦線から離脱した。また1階の藤堂は油断して鉢金を取ったところで額を斬られ、血液が目に入り戦線離脱した。
襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士たちは応戦しつつ、現場からの脱出を図った。裏口を守っていた安藤早太郎・奥沢栄助・新田革左衛門達のところに土佐藩脱藩・望月亀弥太ら浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し、安藤・新田も1か月後に死亡した。望月は負傷しつつも長州藩邸付近まで逃げ延びたが、追っ手に追いつかれ自刃した。
新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが、土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。会津・桑名藩の応援は戦闘後に到着した。土方は手柄を横取りされないように、一歩たりとも近づけさせなかったという。
この戦闘で数名の尊攘派は逃走したが、続く翌朝の市中掃討で会津・桑名藩らと連携し、20名あまりを捕縛した。この市中掃討も激戦となり、会津藩は5名、彦根藩は4名、桑名藩は2名の即死者を出した。
その後新選組は、夜のうちに帰ると闇討ちの恐れがあるために夜が明けるまで待機し、翌日の正午、壬生村の屯所に帰還した。沿道は野次馬であふれていたという。
桂小五郎(のちの木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたため、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話しており難を逃れた。
その後、禁門の変に至った。
「入江やおまえらも入って心強い。しっかり働いてくれ」
土方は部屋を出ていった。
正座をしていた正雄は足を崩した。
「あ〜痺れた」
「あいつ話長いよ」
健はうんざりしていた。
正雄は
金木犀の香りがしていたから、多分秋だったと思う。
『君のことが好きです。オッケーだったら放課後、砂浜に来てください』
学校は大洗の砂浜の近くにあった。
彩夏は来てくれた。
正雄が25、彩夏が24のときに結婚した。グアムに新婚旅行に出かけたが、その帰り飛行機の中で彼女は突然苦しみだし帰らぬ人となった。急性心筋梗塞だった。彼女はどことなくお龍に似ていた。
それから、5年が流れ正雄は漁の仕事を終えて、久々に彩夏の墓にやって来た。墓は丘の上にあった。夏の夜でヒグラシが鳴いていた。線香を上げて、帰ろうとしてると西の空にピンク色の流星が現れた。
正雄は幕末にタイムスリップした。
京の街で坂本龍馬に遭遇した。龍馬は昭和から来た
正雄が自分に似てると気づいた龍馬は自分の演技をしてほしいと頼み込んだ。土佐弁なんてよく分からないし、殺されるのは嫌だから最初は断ったが、龍馬は大判小判をかざした。キャッシュカードを持っていたが、銀行もATMもない幕末では何の役にも立たなかった。
金の魔力に負けて正雄は龍馬の頼みを引き受けた。
武術で小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許された。出立に際して龍馬は父・八平から『修業中心得大意』を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立した。4月頃に江戸に到着し、築地の中屋敷(または鍛冶橋の土佐藩上屋敷)に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となる。道場主の千葉定吉は北辰一刀流創始者千葉周作の弟で、その道場は「小桶町千葉」として知られており、道場には定吉のほかに長男・重太郎と3人の娘(そのうち一人は龍馬の婚約者と言われるさな子)がいた。小千葉道場は千葉周作の「玄武館」(大千葉)と同じ場所に存在したが、身分制度が厳しかったために上級武士は玄武館の所属、下級武士は小千葉道場所属とはっきり分かれており、ともに稽古をすることもなかった。のちに小千葉道場は桶町に建てられた道場に移転するが、そこでも館名がないのはこのためである。
この頃に龍馬は叶と遭遇している。
数年後、龍馬は京にやって来た。
正雄に刀と金を渡して頭巾で顔を隠して龍馬は姿を晦ます。正雄は片言の土佐弁で薩長同盟を成功させた。その直後に逗留していた寺田屋で幕吏に襲われた。また、あんな苦労をしないといけないと思うと憂鬱だ。
「な〜にボーッとしてるんだ?」
正雄は健の声で我に返った。
「スマンスマン」
正雄は思いついた。お龍の家に行ってみよう。
お龍は天保12年(1841年)、医師の楢崎将作と貞(または夏)の長女として京都富小路六角付近で生まれた。異説では実父は西陣織を扱う商人で将作の養女になったともいう。妹に次女・光枝、三女・起美(君江)、弟に太一郎、健吉がいる。
楢崎家は元は長州の士分であったが、お龍の曽祖父の代に主君の怒りを受けて浪人になっていた。父の将作は青蓮院宮の侍医であったため、お龍は裕福な家庭で育ち、生け花、香道、茶の湯などを嗜んだが、炊事は苦手だった。しかし、勤王家であった父が安政の大獄で捕らえられ、赦免後の文久2年(1862年)に病死すると、残された家族はたちまち困窮し、家具や衣類を売って生活をするようになった。母が悪者に騙されて、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られると知ったお龍は、着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男2人を相手に「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ。これは面白い殺せ」と啖呵を切って妹を取り返した武勇伝はこの頃のことである。
その後、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、母・貞は方広寺大仏殿(京の大仏)近くの天誅組の残党を含めた土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家で賄いをするようになった。龍馬とお龍は元治元年(1864年)頃に出会っている。
新選組の手入れが入る前に何とかお龍を助け出さないと!正雄はいても立ってもいられなかった。
新選組は勝手に局を脱すると粛清される。
非番のときに行くしかない。
それにしても幕末の夏は暑い。携帯型扇風機を持ってくるべきだったと健は思った。
障子を開け、風を入れた。夜だというのに蝉がジリジリ鳴いている。
元治元年8月ごろ、近藤勇の態度に遺憾を感じた永倉新八、斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎が会津藩主・松平容保に非行五ヶ条を提出。
丁度、この日は非番だったので正雄は隠れ家に向かった。お龍は酌をしてくれた。
「あまり見慣れない顔ですねぇ?」
お龍は記憶喪失になってしまったのか?
「儂じゃ龍馬じゃ」
「あなたは何者ですか?」
お龍は怯えている様子だ。
「寺田屋のときはマジで助かった」
「何の話をしておられるのか分かりませぬ」
いかん!寺田屋事件はまだ起きていなかった。
もしかしたら偽者なのか?
襖がいきなり開いて、大柄の若い男が現れた。
「龍馬ならとっくの昔に自害したかぜよ、怪しい奴じゃ!」
男の正体は中岡慎太郎だ。天保9年4月13日(1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれた。
安政元年(1854年)、間崎哲馬に従い経史を学び、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。安政4年(1857年)、野友村庄屋・利岡彦次郎の長女・
文久2年(1862年)、長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。
文久2年(1862年)12月、土佐勤王党の間崎哲馬、平井収二郎、弘瀬健太が、青蓮院宮親王の令旨を奉じ、土佐の藩政改革を企てる(青蓮院宮令旨事件)。江戸でこの事件を知った山内容堂は激怒し、間崎らを国許へ送還し、幽閉した。
文久3年(1863年)4月、土佐に帰国した容堂は、攘夷派の弾圧を開始する。まず、乾(板垣)退助、平井善之丞、小南五郎右衛門、小笠原唯八ら、他藩士と交際し攘夷論を唱える上士たちを免職し、6月には先の青蓮院宮令旨事件の首謀者3名を切腹に処した。
京都で八月十八日の政変が起こると、弾圧はさらに激化し、武市瑞山、島村衛吉、久松喜代馬ら土佐勤王党の主立つ面々が投獄された。慎太郎も捕縛対象に含まれていたが、同志・足立行蔵から危機を知らされて脱藩し、辛くも窮地を脱した。
土佐藩を脱藩した慎太郎は、同年9月、長州藩に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となった。また、周防国三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となった。
元治元年(1864年)、石川清之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また、浪士部隊「忠勇隊」の一員として、禁門の変を長州側で戦い、負傷し、忠勇隊総督の真木和泉が自刃した後、和泉の弟・外記と共に総督を務めた。
史実なら龍馬はお龍と出会い充実した青春を送っているはずだ。
歴史が変わり、山内容堂の腹心である吉田東洋を暗殺したのは武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助ではなく、龍馬になっていた。
慎太郎の差料は無銘だが、伝家の宝刀で幾多の血を吸っている。次の間の襖陰から凄まじい一撃が背中を襲ってきた。ぱっとかわした正雄は、なお背すじに必殺のひと薙ぎをくらった戦慄を残していた。
「叶!とどめを刺せ!」
中岡が七三分けの男に向かって叫んだ。龍馬が言っていた昭和から来た男だ。
何とか隠れ家の外に出るが、敵に囲まれていた。
暮れを告げる寺の鐘が市中に響き渡る。
タンッ!銃声が響いた。撃たれたのは中岡だった。刺客は健だった。灯籠の陰でエンフィールド銃を構えていた。
そのとき、赤い流星が東の方へ堕ちていくのが見えた。
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